先日、お参りしたお寺のご法話で、次のような話をお聴聞しました。
「住職に『参れ、参れ』と言われお寺にお参りしているんだけど、寺でお話を聞いたら悲しみや苦しみがなくなるもんでしょうか」
訊ねてきたのは80代ぐらいの方です。詳しい中身は分からないものの、きっと大きな悲しみや苦しみを持っていたのでしょう。そうでなければ私にそんなことをわざわざ聞いてくることはずがありません。
ご自身や家族の方が大きな病気になった。
ちょっと前に身近な方が亡くなった。
自分や周囲が大きな過ちを犯して、針のむしろに座らなければならなくなった。
そういったことがあったのかも知れません。
「お寺にお参りしてお聴聞すれば、悲しみはなくなりますか?苦しみはなくなりますか?」
「いいえ。お寺で話を聞いても悲しみはなくなりません。苦しみはなくなりません」
「だったら……どうしてお寺に来て話を聞かなければならないでしょうか」
「悲しみや苦しみは消えないですが、安心して苦しむことができる私に、安心して悩んでいくことができる私に変わっていくのかも知れません」
なぜ安心を恵まれるのでしょうか。それは仏さまが『それでいいですよ』とおしゃってくださるからです。
ある50代の男性の方。奥さんを亡くされました。その悲しみを背負って仏さまの話を聞くようになったといいます。3年ぐらい経ったあるとき、このように語られました。
「私は妻を亡くした悲しみとともにお寺へお参りすようになりました。最初は『話を聞けば少しでも悲しみが軽くなるかも知れない』と思いましたが、そうでもありませんでした。
ですが、そのことをすべて知っていてくださる仏さまが『それでいいですよ』っておっしゃってくださるのを聞いたときに、お寺の本堂の真ん中で安心して苦しんでいけるようになりました。家のお仏壇の前で安心して泣けるようになることができました」
ここにこそ本当の宗教的な救いがあるのかもしれません。
宗教によっては、「うちの宗教に来ればすべての悲しみがなくなる」という旨を表看板にしています。
「家内安全」とか「世界平和」とか言葉にすることは、そんな簡単にいくわけがありません。ひとりひとりが人に語ることができない大きな悲しみを抱えながら、支えきれないほどの悩みを背負っています。嗚咽の声を流しながらしか生きていくことができない──それが人生の事実です。
その私の悲しみのど真ん中に飛び込んできてくださる仏さまがいらっしゃる。
この口から「なんまだんだぶ」とこぼれ出てくださる仏さまがいらっしゃると聞くのが浄土真宗というご法義です。