偏差値60~70を超える難関校といわれるような学校と、名前を書けば誰でも入ることができる学校では、どちらが凄いでしょうか。
言うまでもなく前者です。
世の中には、「限られた人にしかできないこと」と「誰にでもできること」があります。普通に考えれば、価値があるのは「限られた人にしかできないこと」です。
仏教で修める行についても同じことが言えます。散り乱れた心を鎮めたり、滝に打たれたり、火に近づいたり、山に籠もったり、不眠不休で過ごしたり……これらは誰にでもできることではありません。
対して、「なんまんだぶ」のお念仏を聞くことや口に出すこと。この行は老人も子どもも、病人も健康な人も、誰にでもできます。
どちらが勝(すぐ)れた行かと問われれば……これも答えは明らかです。
しかし、親鸞聖人の師匠である法然聖人は、ここをひっくり返しました。
南無阿弥陀仏の名号には、阿弥陀さまの一切の功徳が完成されており、すべての徳がおさまっています。そのことを「名号はこれ万徳の帰するところ」とおっしゃっています。
自分の口で称えているし、自分の声であるから、自分の行であると思っているかもしれませんが、これが阿弥陀さまのはたらきそのものだと明らかにしたのです。
その上で、本当に勝れた行とは「誰にでもできる易しい行である」とお示しくださいました。
「勝れた行とは、『誰にでもできるからこそ』勝れた行である。一部の人間にしかできないようなことを成し遂げた『行者』は凄い。ところが、『行そのもの』の値打ちはどうか。実は『誰にでもできる行』こそが勝れているのだ」
このように行の価値を転換したのです。
奈良県の森田眞円和上が、次のような例え話を教えてくださいました。
100人ほどの村人が住む村があったとします。
ある日、その村にひとりの行者さんがやって来ました。修験道を歩む山伏さんです。
「ちょっとヒザが痛くて困ってまして……」
そう語るお婆さんに出会うと、行者はおもむろに痛む部位に手を当て、「喝!」と呪文を唱えます。さらに懐から秘伝の薬を出すと、お婆さんに飲ませました。
すると、お婆さんは「何となくひざが軽くなったような気がする」というから驚きです。
今度は「近頃、ちょっと目が疎くなって……」と語るお爺さんが現れました。
行者は、同じように相手の目に手を当て、「喝 ! !」と言って秘伝の薬を飲ませる。同じように「何となく見えるようになった」とお爺さんが言うものだから、瞬く間に100人の村人の半分ぐらいがその行者さんのファンになりました 。
「あの人はすごいで」
「ありゃ超能力者やで」
しかし、あとの半分の人は「それホンマかなあ」「気のせいちゃうやろか……」と疑っています。
しばらくして、行者さんは村の真ん中に大きな風呂釜を持って来られました。水をいっぱいに張ると、下から薪で炊き始めます。
あっという間に風呂釜に入っている水が熱湯になりました。
その様子に気づいた村人たちが「なんだ」「どうした」と集まってきます。
頃合いを見計らった行者さんが着ている衣をガバッと脱ぐと、例のごとく「喝!!」と大声を出し、なんとガラガラと煮え立っているお湯の中にザブンと入ってパッと出てこられたのです。
ところが……行者さんの身体は火傷ひとつ負っていません。
見ていた50人の行者ファンは「オオォーッ」と驚嘆の声をあげます。「さすがうちの行者さんや !!」と拍手する人や、涙を流す人も出てきます。
一方で、まだ疑っている人たちはその光景をポカンと見るばかり。
そこで、行者さんはある人を指さしました。その先には村のお寺を預かっている住職さんがいます。
「おい、真宗坊主。次はお前の番や。お前にこんなことができるか?」
行者さんは目で訴えかけて住職さんを挑発します。
「えらいこっちゃ。うちの住職さん、死んでしまうんじゃなかろうか」
周囲の人が慌てていると、住職さんは村人たちの間をかき分け、グツグツと煮え立っている熱湯の前に立ちました。
村人たちが息を呑んで見守るなか住職は──
「お~い!誰か!冷たい水持ってきてくれ~!」
と、声を上げます。
言われるがままに誰かが手桶に冷たい水をいっぱいに汲んで持って来きました。
すると、住職さんは行者さんと同じようにガバッと着物を脱ぎ、その手桶を頭の上に掲げました。
自分にかけるのかな……と思いきや、ザバーッと冷たい大量の水をお風呂に入れ、クルクルとかき混ぜると、
「さあ、これでええお湯になった!皆で一緒に入ろうじゃないか!」
他の人では真似することができないこと成し遂げた行者さんは凄いです。
ただ、熱湯の中に入って平気だった行者さんは凄いのですが、それは熱湯が凄いわけではありません。
どちらかといえば、誰でも気持ちよく入ることができる温かいお湯の方が勝れています。
法然聖人がおっしゃったのはこのことです。
行を成し遂げたその行者さんは凄いかもしれませんが、行そのものの値打ちでいえば、誰にでもできる易しい行の方が勝れています。
誰にでもできる易しい行──それがお念仏です。
阿弥陀さまが私たちのために用意し完成し、全ての徳をそこにおさめてくださったのが「南無阿弥陀仏」です。
南無阿弥陀仏のはたらきによって私たちは覚りに導かれています。
「どんな時であっても、南無阿弥陀仏の仏さまは私のところにおってくださるんだ 」
と法然聖人はおっしゃいました。
親鸞聖人はその仰せを承けて
「名号(南無阿弥陀仏)は、仏さまから私たちへの喚(よ)び声である」
とおっしゃいました。
仏のはたらきであり、「まかせよ 、阿弥陀に 」という仏の喚び声、喚びかけである。このように親鸞聖人は明かされました。