磁石の譬え3

お盆の施本に掲載されていた磁石の譬えを用いた法話をご紹介します。

私たち浄土真宗の門徒は、お仏壇に手を合わせるようになった今を「阿弥陀さまから賜ったお育て」だと受け止めます。

かつてご法事でこの話をした時、ご門徒さんが

「いきなり阿弥陀さんと言われても……正直、唐突やなあ」と言われました。

話してみるとその方は、

「自分がお仏壇に手を合わせるようになったのは、やっぱり両親の影響だと思う」

とおっしゃるのです。
それも確かに分かります。

でもやはりそれは阿弥陀さまからのお育てなのです。
そのことについて親鸞聖人が

なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに
(また磁石のようである、煩悩にまみれた衆生を引き寄せるから)

と、阿弥陀さまのはたらきを磁石に寄せてたとえられた箇所があります。

ここから少し味わってみたいと思います。
皆さん、想像してみてください。

磁石の前にハリガネを置くとどうなりますか。

当然、磁石にくっつきますよね。

これは磁石にそなわる磁力が、ハリガネを吸い寄せるからです。

そのハリガネが、たとい錆びていても、曲がっていても、折れていても、磁力は吸い寄せます。

磁力はハリガネの「形状」を問題としていないからです。
しかも面白いのは、磁石にくっついているハリガネに、別のハリガネをくっつけると、そのハリガネもくっつきます。

はた目には、ハリガネとハリガネとがくっついているようにしか見えませんが、実は大本に磁力がはたらいているから、そのようにくっつくのです。
このことと、先ほどの話とを合わせてみますと、お仏壇に参る今を「先立った両親の影響」だと言われたご門徒さんは、ハリガネ(両親)にくっついたハリガネ(自分)を見て、そのルーツはご両親だとおっしゃっているのでしょう。

しかしそもそも、そのご両親を仏さまの方へ顔を向けさせたのは、その先に阿弥陀さまという磁石が大本となってはたらいていたからなのです。
ではこの場合の磁力とは何か。端的に言えば、それが称えればいつでも聞こえてくる「南無(まかせよ)阿弥陀仏(われに)」の阿弥陀さまの大悲の喚(よ)び声なのです。

救いを告げるこの喚び声が一貫して、これまでの先人たちを浄土へと誘(いざな)い、そこに連なる私にも届いて、人生の終着とは「滅び」ではなく「浄土への往生」だと絶えず導いてくださっているのです。

それは磁石はどんなハリガネでも等しく吸い寄せていくように、たくさんの人を傷つけてきた私であっても、
困っている人の横を知らん顔をして通り過ぎてきた私であっても、
どんなに恥ずかしい生き方を重ねてきた私であっても、
阿弥陀さまは大悲をこめて「そのままでよい、必ず救う」と告げてくださいます。

考えてみれば、お念仏なんかするはずのなかったこの口から、今お念仏が出ているという事実は、何の変哲もないハリガネが磁石によって磁力を帯びるように、大変な変革が自分の中におこったことの証拠です。

この変化を「お育て」と味わうところに他力の妙味があるのです。

そこに、「おかげさま」の世界が広がっていきます。
かけがえのない思い出をたくさん残して先立たれた方々。その方々がお仏壇に手を合わせていた背中の向こうから、大いなる本願力で私を浄土へと誘(いざな)う阿弥陀さまがおられました。

その阿弥陀さまは、いま私を「われにまかせよ」と大悲でもって包み込み、「ここにおるぞ」とご一緒してくださいます。

お盆のこの時期に、お寺へお聴聞に出向き、あるいはお仏壇の前に手を合わせ、心静かにお念仏いたしましょう。

(参考・引用『お盆』「先立たれた方を想う」井上見淳)

法話一覧

2018年08月12日