煩悩6

煩悩の記事を読んだ方から、「煩悩をなくそうとすることは悪いことでしょうか」と聞かれました。


人間は面白いもので、「消そう」「なくそう」「気にしないようにしよう」とすればするほど、反対にそこへ意識が集中し、さらにがんじがらめに囚われてしまう性質を持っています。


ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった名著『夜と霧』。
精神科医・哲学者としても知られる著者のヴィクトール・E・フランクルは、人間存在の意味を追求する「ロゴセラピー」を説きました。


『現代人の病―心理療法と実存哲学』には次のようにあります。

恐怖症と強迫神経症の病因が、少なくともその一部は患者がそれから逃れようとしたり、それと戦おうとすることによって起こる不安や強迫観念の増大にあるという事実に基づいている

こうした現象を「森田療法」で有名な医学者・森田正馬氏は「精神交互作用」と名付けました。


森田正馬氏によると、そもそも神経症の不安や葛藤は、正常な人にも生じる心理状態です。
自分にとって不都合な弱点を取り除こうと努力するほど、その意に反して自分に不都合な神経症の症状を引き出してしまいます。〈参考『森田療法』岩井寛〉


要するに、人間は「消そう」「なくそう」「気にしないようにしよう」という意識が心のどこかにある限り、なんとかしようと意識すればするほどに、まるで蟻地獄のように負のスパイラルに陥っていくのです。


福間義朝先生が稱名寺の永代経法要で次にような話をしてくださいました。

私たちの心は休まることがありません。
この人生振り返ってみて、心配事がなかった時期があるでしょうか。
ひとつの心配事終わったら、次に必ず何かの心配事がうごめきませんでしょうか。

「今月はお金がないけどどうしょうか」

それが終わったら、

「身体の調子が悪いけど病気ではないだろうか」

その次には、

「人間関係であの人には困ったものだ」

というように不安や気になることは尽きません。これを煩悩と言います。
私たち人間は煩悩ゆえに苦しみます。
しかもこの煩悩というものは、意識すればするほど意図することと逆の方にゆきます。
あの人のことを気にしたらいけないと思えば思うほど、気になります。
また、「明日の朝早く起きなくてはいけないから、今晩は早く眠らなくては」と思えば、よけいに眠れなくなります。
チベット仏教にこういう話があります。

ある修行の先生が自分の弟子に言いました。

「これから1時間座禅をしなさい。
その間、何を考えても何を思ってもよい。ただひとつ──【猿】のことだけは絶対に考えてはいけない」

その弟子は1時間座って一生懸命がんばりました。

「猿のことは考えてはいけない……猿のことは考えてはいけない……」

すると、その弟子の頭の中に浮かんでくる猿の姿が、どんどん大きくなってゆきます。

1時間たってその先生が弟子の所へやってまいりますと、何とその弟子は……猿の格好をしていたといいます。これが煩悩というものです。
親鸞聖人は、比叡の山でこの煩悩を断つご修行をなされました。
「熊皮の御影」に描かれている聖人さまのお姿を見ますと、とても厳しいお顔をしています。
私はこのお姿から、聖人さまは極限まで煩悩を断つご修行を試されたのだと思いました。
でも煩悩を断つことはできなかったのです。
だからといって、「聖人さまは修行をしても煩悩が断てなかったのだ」と、短絡的に受け止めてはいけません。
むしろ、聖人さまこそ、煩悩のカラクリを見抜かれたのです。
いくら修行しても、断とうとすればするほど、ますます勢いづくのが煩悩です。
「これだけ修行したから私は他の者よりは清らかになった」という思いですらも煩悩です。
比叡の山を降りられた聖人さまは、六角堂にお籠もりになられ、95日目の暁にご覧になった聖徳太子がお出ましになった夢に促されて法然聖人のもとを訪れます。
そこでお聞きになられたのは「煩悩を断じて仏になる」ではありません。
「山ほど煩悩がありながら、そのまま抱き取られ救われてゆくことこそ、お釈迦さまのお説きくださったみ教えの本意である」ということだったのです。
それでは「煩悩があるがままに救われてゆく」とは、どういうことでしょうか。
親鸞聖人が比叡の山を降りてゆかれるとき、そのお心持ちを存覚上人さまは『嘆徳文(たんどくもん)』というお書物に、次のように書かれました。

定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ。
(心の中を澄み切った鏡のような水面の如く静かにさせようとしても、すぐに様々な思いの浪が起こってくる。心の中にきれいな満月をイメージしようとしても、すぐに様々な妄念の雲が覆ってしまう)

私たちの心にはいつも妄念の雲が覆い続けています。
夜中に目が覚めてこれからのことを考えると、いろいろな不安がまるで雨雲のように心の中に立ち込めて眠れなくなることはないでしょうか。

心の中に様々な不安で雨雲が立ち込めているまま生きているのが私たち人間の姿です。
しかし、心と違って空の雨雲はどんなに立ち込めていても、私たちは心配しません。
飛行機に乗ると、出発前は空が真っ黒な雲に覆われていても、雲を突き抜けたら青空が広がっています。
いかなる雨雲も広大無辺の大空の下にあるのです。
必ず雲と雲の切れ間から青空が見えてきます。

今はどんなに不安や恐怖の煩悩という雨雲に覆われていても、その煩悩は広大無辺のお慈悲の中の煩悩です。
どれだけ私の心が煩悩という雨雲に覆われていても、その煩悩を突き抜けて広大無辺の如来さまのお慈悲が私に届いています。
どのように届いているかと言えば、南無阿弥陀仏の声となって届いています。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、今この口からお念仏が出るということは、山ほど煩悩があるがまま、今そのまま如来さまのお慈悲に包まれているということです。

「煩悩があるがまま、すでに如来さまに抱かれている身であった」

親鸞聖人は法然聖人に会われて、お釈迦さまのお説きになられた真実の教えに遇われたのでした。
煩悩を断つことができないのは、断とうとしている私こそ煩悩のかたまりであり、煩悩そのものだからです。
それゆえ私の中には何ひとつ真実はありません。

阿弥陀さまはそんな私を救わんがために、「南無阿弥陀仏」という声となって私に届いておられます。
今、私の口が出てきてくださる南無阿弥陀仏だけが真実です。
だからこそ、浄土真宗は煩悩のあるがまま、ただ今が慶ぶことのできるご法義なのです。

法話一覧

2018年08月26日