龍谷大学の若い先生が、生徒から次のような質問を受けました。
「仏教って何か役に立ちますか?」
お釈迦さまのさとりの眼差しから説かれた教えを聴くことは、私たちにとって役に立たないわけがありません。
私たちとは全く違うものの見方ですから、「そういう見方をするのか」という気づきは確かにあるはずです。
しかし、「役に立ちますか?」と聞かれてしまうと、ちょっと胸に引っ掛かるものが残ります。
ある時、若い先生はこの話を先輩のお坊さんに話してみました。
「何か違和感があるんですよね」
「そんなの、当たり前でしょう」
「何でですか?」
「“(私の)役に立つかどうか”という発想は、“自分”の方が大きくなってしまって、肝心の『仏教』が小さくなってしまっている。それは道具と同じ発想ですよ。
これがあったら便利だろうか、これがあったら役に立つだろうか……でも、仏教は道具とは違います。
むしろ、私たちがどんな生き方をしたとしても、それを根底から支えてくれるもの──それが仏教です」
「なるほど」
私たちの人生を根っこから支えてくださるものは、私たちよりも大きい存在でないといけません。
これを仏教で「根本主尊」といい、略して「本尊」といいます。「私の人生を根っこから主となって支えてくださる尊いお方」という意味です。
浄土真宗の本尊は、阿弥陀如来という仏さまです。「決してあなたを見捨てません」という慈愛の心は、昔から幼い子どもに対する親心に喩えられてきました。
あくまで喩えではありますが、阿弥陀如来を「親様」と呼んで仰いできた先人たちもいます。
ある先輩は「“阿弥陀如来は私の役に立つのか”という質問は“親は役に立つのか”という質問と同じだ。親とは子どもを育み、見守り、支えていく存在です」と話していました。
仏教は「役に立つか」「役に立たないか」で語るものではありません。
あえて言うならば、私にとって「支えになるか」「支えにならないか」で語るものなのでしょう。