背相なし

中国の高僧である善導大師の著した『般舟讃(はんじゅさん)』には次のような一節があります。

仏身円満(ぶっしんえんまん)にして背相(はいそう)なし
十方(じっぽう)より来(きた)れる人みな面(おもて)に対(むか)

「阿弥陀仏の身は完全円満であり、どこから眺めても常に正面を向いておられる。よって、十方より来る人はすべて阿弥陀仏の正面に向かい合う」といった内容です。


島地黙雷師の『般舟讃講話』には、「われわれが夜空を見上げると、その満月はいつも正面を向いて前後左右が無いようなものである」と喩えられています。


この言葉には「あなたがどうあっても私は正面から迎え入れる」という仏さまの慈しみが表わされているように感じます。


福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山である永平寺。


第67世貫首である北野元峰(きたのげんぽう)氏の次のようなエピソードが『永平元峰禪師傳歴』に残っています。


修行中の元峰のもとに、母の危篤の知らせが届きました。
急いで福井県の実家に帰省して、母の看病に専念。幸いに病気は快癒に向かいます。

再び修行に戻る前に元峰は母親に告げました。

「私はこれから再び修行に励んで参ります。もしも間違ってヤクザ坊主(墜落した僧侶)にでもなれば、もう帰ってくることはないでしょう」

「何を言ってるんだい。ヤクザ坊主になんかなったら、なおさら帰ってきてもらわないと母は困りますよ」


佐藤俊明氏の『心に残る禅の名話』では、このエピソードを紹介したあとに次のように解説されています。

名僧になったら、多くの人々に慕われ、世間にもてはやされ、寂しさは感じないでしょう。しかし、修行の道を挫折するようなことがあれば、誰も相手にしてくれる人はいません。そのときこそ、「この母親のもとに帰ってこい。母はお前がどうなろうと、またどんなときでも迎えてやるぞ。大手を振って玄関から入ることができなければ、窓からでも入れてやる」……という、この一途な母の愛の言葉に、元峰青年はいたく感動し、その後の仏道修行に骨身を削り、名僧北野元峰禅師に成長したのです。


「がんばれ」と相手に発破をかける言葉は、誰にでも言うことができます。そして、相手に期待する人間は、相手が期待に応えなければすぐに背を向けてしまいます。


そうした私たちの世界のおいて、「あなたがどんな立場にあっても迎え入れますよ」という存在は、どれほどあるのでしょうか。

仏身円満にして背相なし
十方より来れる人みな面に対ふ

私のいのちの質や能力が問われることなく迎え取られる世界が、「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の響きのなかにあります。

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2018年03月11日