知り合いと世間話をしていたときのことです。こんなことを聞かれました。
「嫌な記憶に限って覚えているよね。あれってなんでかな?」
「人間は100の褒め言葉よりも、1の悪口の方が印象に強く残るらしいよ。心理学ではネガティヴィティ・バイアスというみたい。我々が生きていくためには、自分の身を脅かす存在を早く見つけ、対処したり克服しなければいけないからね。そのために良いことよりも、悪いことばっかりが目についたり、記憶に残るようになっているんだって」
「そうなんだ。じゃあ人間はそういうものなんだって考えればいいのかもね」
相手も納得してくれてその場は満足しましたが、すぐに後悔しました。なぜなら、本当の苦悩は決して自分の力では超えることができないからです。
私が言ってるような小手先の考え方で誤魔化せるような悩みであれば、それは最初から本人にとって大した悩みではなかったのかも知れません。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、漢字で書かれたお経の言葉を平易で口ずさみやすい七五調の詩句形式にした『和讃』を著しています。
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
【現代語訳】阿弥陀仏が願いをおこされたおこころを尋ねてみると、苦しみ悩むあらゆるものを見捨てることができず、何よりも回向を第一として大いなる慈悲の心を成就されたのです。
「病人」がいるから、病院や医者、薬があるのと同じく、「苦しみ悩むもの」が存在するから、仏さまがいらっしゃるのです。
裏を返せば仏さまから見た私は「苦悩の有情」であり、
誰もが自分の力では超えることのできない苦悩を抱えてしか生きていけないからこそ、仏さまがいらっしゃるということがわかります。
『クイック・ジャパン』というカルチャー雑誌にTBSアナウンサーの宇垣美里さんがコラムを連載しています。
基本的に読み流していますが、1年くらい前に面白い記事を読みました。今年になってSNSでも拡散された「マイメロ論」と呼ばれる宇垣アナの持論についてです。
自分のことをウガキミサトだと、キー局のアナウンサーだと、そう思うから辛いのだ。ふりかかってくる災難や、どうしようもない理不尽を、一つひとつ自主的に受け止めるには、人生は長すぎる。
そんな時は、「私はマイメロだよ~☆ 難しい事はよく分かんないしイチゴ食べたいでーす」って思えば、たいていのことはどうでもよくなる。
マイメロとは、サンリオのキャラクターであるマイメロディのことです。ちなみに、続きには次のような文章が綴られています。
殺人的に忙しくて目が回りそうになったら、映画『カリオストロの城』に出てくる次元になりきって、「おもしろくなってきやがった……」とでも呟けば、本当に面白くなるのでオススメ。
(中略)
人生って不公平で理不尽なことの連続だから、人はついつい傷ついた記憶を飴玉みたいになめ続けてしまいがちだけれど、でもそうやって生きていくことに慣れるには人生は長すぎる。
どうせなら話のネタにもならないような記憶なんかとっとと捨てて、幸せなことだけ考えていたい。私の人生においてなんの価値もない、悲しい嫌がらせの記憶はほかの人格にまかせて他人事にしちゃえばいい。
現実の理不尽さを受け入れられずに現実逃避する人もいますが、宇垣アナの態度は少し異なるようです。
人生は不公平で理不尽であることをしっかりと直視したうえで、自分なりの上手な付き合い方を考えていて、個人的には面白いと思いました。
ただ、この「マイメロ論」が注目されてすぐに反論も聞こえてきます。
芸人の有吉弘行さんがラジオで「マイメロ論」について触れたリスナーからのメールを紹介したあと、次のように語っていました。
格好つけているだけ。絶対に無理。本当の悩みからは逃れられない、誰しも。
こんなことで解決してない、この人。絶対、抱え込んでると思う、悩み。
こちらもまた非常に大切な視点ではないでしょうか。
有吉弘行さんといえば、『電波少年』というテレビ番組に出演したことで一躍有名になりました。しかし、メディアによって作られたブームが去ると、表舞台での活躍は少なくなり……栄枯盛衰は世の習いではありますが、当人は非常に辛い思いをされたのではないでしょうか。
例えば、今までチヤホヤしてくれた周囲の人たちが手のひらを返し、冷たい態度や心ない言葉を浴びせられたかも知れません。自分ではどうすることもできない辛酸を嘗め続ける日もあったでしょう。
本当の人生の苦しみとは、自分で作り出した空想やイマジネーションで乗り越えられるほど甘いものではない……ということを知っているから、「本当の悩みからは逃れられない、誰しも」という発言があったと思われます。
「悩みが軽くなる」といったキャッチコピーの仏教本もありますが、せっかく仏教に興味を持ったのにその場しのぎではもったいないのではないでしょうか。
仏さまを目の前にするときに、そこには立ち上がって救わねばならないほどの苦悩の有情である私がいるということで、
自分の力で超えることができない苦悩を抱えねば生きていけない私がいるからこそ、その苦悩を超える法を完成させた仏さまがいらっしゃるのです。