私の趣味は音楽鑑賞です。日本のメジャーなポップスから海外のマイナーな民族音楽まで浅く広く流動的に聴きます。
一方で「いつ聴いてもいい」と感じる自分のなかの定番があり、例えば「宇多田ヒカルさん」が該当します。
好きすぎでライブに通うだけでなく、法話に登場させたり、音楽と関係のない動画も見てしまいます。
少し前にこちらの動画がSNSで話題になりました。Instagramの生配信の抜粋です。
視聴者からの「誰かを忘れることはどうしてこんなにつらいの?」という質問に対して、
相手との関係が終わるとき、誰かと離ればなれになるとき、もしも「つらい」と心の痛みを感じることがあるならば、その心の痛みは初めから存在していたものです。
相手の存在や関係が「痛み止め」のような役割をしていたのではないでしょうか。
あなたが抱えていたつらさを紛らわせてくれいていた支えを失うときに、私たちは痛みを感じるんだと思います。
と答えていました。
つまり「人間とは基本的に痛みやつらさを抱えているもの」という人間観が宇多田ヒカルさんにはあるようにうかがえます。
パーリ仏典経蔵の相応部(15)「無始相応」の第3章には次のようなお釈迦さまの言葉があります。
ある日のこと、お釈迦さまは舎衛城の祇園精舎で弟子たちに説きました。
「輪廻には、始まりがありません。
あらゆる生が、無智に覆われ、貪欲に縛られ、どれだけ遡っても輪廻のはじまりは見えてきません。
あなたたちはどう思いますか。この永い輪廻において、生き物が流した涙をすべて集めるならば海よりも大きいでしょうか、小さいでしょうか」
「お釈迦さま、それは言うまでもありません。この永い輪廻において生き物が流した涙をすべて集めるならば、海よりも大きいはずです」
「その通りです。始まりのない過去から現在に至るまで、長い長い歳月に渡り流し続けた涙は、大海と比べて遥かに大きいのです。
このように永遠の時の間を我々は苦しみながら輪廻をし続けてきました。だからこそ解脱を求めることが賢明なのです」
人間が生きるということは、悲しみを生きるということを教える教説です。
個人的な感覚の話ですが、宇多田ヒカルさんをはじめ、素晴らしい表現者というのは「人間の本質的な悲しみ」をよくご存知であるように感じます。
それほどまでに過酷な経験をされてきた……もしくは人よりも痛みに敏感である繊細な感受性の持ち主なのでしょう。