願以此功徳

仏前の勤行の終わりに唱える偈文のことを「回向」、あるいは「回向句」といいます。

「回向句」で唱えられる文言はひとつではありません。たとえばお葬式の際の出棺勤行では、龍樹菩薩の『十二礼』より

我說彼尊功德事(がせつひそんくどくじ)
衆善無邊如海水(しゅぜんむへんにょかいすい)
所獲善根清淨者(しょぎゃくぜんごんしょうじょうしゃ)
迴施衆生生彼國(えせしゅじょうしょうひこく)
われ、かの尊の功徳の事を説くに、衆善無辺にして海水のごとし。獲るところの善根清浄なれば、衆生に回施してかの国に生ぜしめん

の文が用いられています。

また「往覲偈」の

其仏本願力(ごぶつほんがんりき)
聞名欲往生(もんみょうよくおうじょう)
皆悉到彼国(かいしつとうひこく)
自致不退転(じちふたいてん)
その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。

の文もよく用いられる回向句です。

もっともよく用いられるのは「正信偈」や「重誓偈」でもおつとめする

願以此功徳(がんにしくどく) 平等施一切(びょうどうせいっさい)
同発菩提心(どうほつぼだいしん) 往生安楽国(おうじょうあんらっこく
願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。

こちらの文でしょう。


そもそも、なぜ勤行の最後に回向句を唱えるのでしょうか。

子登の『真俗仏事編』三には

亡者の為に経を誦(よ)み、真言陀羅尼を唱ふ、その功徳を回(めぐ)らして、彼の亡者に向はしむ故に回向といふ

とあります。

これによれば回向句を唱える意義は「仏事法要をつとめ、その功徳を亡くなった方および一切衆生に分かち与え、その方々の仏道を成就させようとするところにある」といいます。

私から死者や他者に向けて……この考え方が一般的のようです。

しかし浄土真宗は自ら修めた功徳を自分や他者に回向して仏道を成就しようとする宗教ではありません。阿弥陀如来の回向による仏道の成就をめざしています。

そのため回向句も、仏事法要を修めることによる功徳を誰かに回向するという性格のものではないのです。

願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国

この文は善導大師のお書きくださった『観経疏』「玄義分」の巻頭に綴られた「帰三宝偈」の最後に出てくる一行四句です。

「帰三宝偈」は冒頭に「道俗時衆等 各発無上心(道俗の時衆等、おのおの無上心を発せ。)、次に「共発金剛志(ともに金剛の志を発して、)、最後に「同発菩提心(同じく菩提心を発して、)とあります。

「無上心」「金剛志」「菩提心」と言い方は異なっていますが、すべて「他力の信心」を表しています。

善導大師が『観経疏』を著された背景には、僧侶も俗人も含めたすべての人々に「ただ(阿弥陀如来より賜る)信心をいただいて欲しい」という思いがありました。

「帰三宝偈」には一貫して善導大師のそのお心が流れています。この善導大師のお心に添って「願以此功徳」の意味を窺ってみましょう。

「此功徳」とは「南無阿弥陀仏」の名号の功徳です。阿弥陀如来が生きとし生けるものを救うはたらきを示しています。

「平等施一切」とは、行者が自ら修めた功徳を回向することではありません。「此功徳」をいただいた念仏者の常行大悲の姿のことです。

阿弥陀如来の功徳(名号)をいただいた念仏者は、現生十種の利益を得ることができます。
親鸞聖人は十種の益について『教行信証』「信巻」真仏弟子釈で経文や釈文を引いて明らかにしています。

常行大悲については、道綽禅師『安楽集』を引用して、次のように示しています。

『大悲経』にのたまはく、〈いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく〉」と。

常行大悲とは、自らが念仏をすることであり、他の人々に念仏を勧めることであると示されています。
自らが念仏すること(自信)が、他の人々に念仏を勧めることになる(教人信)のです。
この教人信を示している「平等施一切」の文です。

また「同発菩提心 往生安楽国」とは、菩提心とは他力の信心のことであり、安楽国とは阿弥陀如来の浄土のことです。
「皆ともに信心をいただいて、阿弥陀如来の浄土に往生しよう」という意味になります。

ここでも『観経疏』「玄義分」に一貫している信心を勧める善導大師のお心を知ることができます。そのお心をいただき、回向句として経典読誦の最後にお勤めしているのです。
決して経典読誦の功徳を回向するといった意味はありません。

〈参考『季刊せいてん』より〉

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2021年12月12日