領解文8

『領解文』は1900年代まで蓮如上人が作者であると信じられていました。


しかし稲葉昌丸編『蓮如上人遺文』(1937年)にて『領解文』が蓮如上人作であるという説に疑問が向けられました。


以降、学術的な視点から正式に論文の形で疑義を表明したのが禿氏祐祥氏です(1948年)。次のように指摘をされています。

『領解文』を蓮如上人の作とするのは、遡ってもおよそ100~200年のことであり、慶長年間(1596~1615)以前には「改悔文」について述べた者も、その作者が問題とされることもなかった。
蓮如上人の言行録の作成に尽力していた実悟が『領解文』について何も触れていない。
蓮如上人御真筆の「御文章(御文)」「和歌」が多く残っているのにも関わらず、上人御真筆「改悔文」やその転写本が存在しない。
「改悔文」を蓮如上人の作とする説が現れて以後、急に続々と上人御真筆の「改悔文」が出てきた。その代表的な存在が「光善寺本(出口光善寺模刻本)」である。
「光善寺本」を見ると、蓮如上人の筆跡と書風の点で承認できず疑わしい。

禿氏祐祥氏は「改悔文」の作者を蓮如上人とするかどうかについて、本来「改悔」とは各々の信仰告白であり、各々が自由に述べるものと指摘し、「堅苦しい文章を形式的に述べるようになったのは遥かに後世になってからのこと」と述べています。

一方で「改悔文」に出てくる字句は蓮如上人に起源を求めることができることも可能であるとしています。

結論として「改悔文」の作者を蓮如上人とする根拠は見られないが、似たような用例が蓮如上人の著述にあるので、上人が「承認を与えられたようなことはあったと考えて差支えはあるまい」と述べられています。


梅原隆章先生も『浄土真宗における信仰告白の成立』(1966年)において「改悔文」の作者を蓮如上人と見ることには否定的ですが、次のように書かれています。

たとえそのとおりの文言のものを御製作にならなかったとしても、その内容に類したものが蓮如上人の御文章の中に散見されるのである。そこで、誰かが、蓮如上人の諸文集の中からその思想を一層簡潔に要約したものであるとするならば、そして、それが領解出言のテキスト・ブックとして、門信徒にうけとられているならば、「蓮如上人の定められたもの」であるといっても全く間違いでもない。

また梅原氏は「師徳の典拠がどこにあるか見当たらぬ」と重要な指摘をしています。


この点について、池田勇諦氏は『「改悔文」と教団』(1988年)において、「次第相承の善知識」という言葉で蓮如上人がご自身を含めて歴代宗主を「善知識」と表現している文がないことを指摘しています。


歴代宗主を「善知識」とする理解は本願寺第10代証如上人(1516~1554)の頃から見られるものであると述べています。
やがて「一向一揆が展開し、本願寺の集権化が進むのと並行して多く書かれてきた談義本」において強調されてきたものであると推察しています。


現在、『真宗史料集成』(第2巻p.67)において『蓮如上人遺文』の評価にしたがっています。


2014(平成26)年に刊行された『浄土真宗聖典全書』第五巻(相伝篇下)には『領解文』が収録されているものの、底本は「大阪府光善寺蔵伝蓮如上人書写」と表記されています。


現在の学界では『領解文』の直接の作者を蓮如上人とする説には否定的な見方が主流です。ただし内容については、上人に大方の根拠を求められますし、多くの方々が大切にされてきた歴史もあることから、現在でも広く受け入れられています。

(参考資料 井上見淳『「たすけたまへ」の浄土教-三業帰命説の源泉と展開-』)

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2023年09月01日