領解文6

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の御命日法要である御正忌報恩講は、毎年1月9~16日に京都・西本願寺にて執り行われています。


6時から晨朝勤行、10時から日中法要、14時から逮夜法要、そして15時30分から初夜勤行をおつとめします。


この初夜勤行で行われるのが改悔批判です(中日の13日は『御伝鈔』の拝読)。ご門主さまが信心(安心)の正否を批判(判断)する儀式です。本願寺第8代の蓮如上人のころ、報恩講期間中の毎夜に僧侶や門徒が各自の信仰を告白し、批判を仰いだことに始まります。


本願寺第23代勝如上人のご尊父である大谷光明師の書かれた『龍谷閑話』には「古来口伝ともいうべき一つの伝統があり」として代判人(与奪者)に与えられる心得の条が記されています。

この各条は今日もそのまま踏襲されています。その第一に

報恩講参集の道俗に自督安心を御影前において出言せしむるは、その正否を批判するが為なり。故に改悔批判と称す。法主の特権なり。

とあります。ご門主の特権として改悔批判を行うのです。内容はお参りされた皆さんのご安心(信心)が正しいか誤っているかを判定するものです。


私たち浄土真宗の門徒にとっての肝心要の安心の判定を行う場が改悔批判の席です。ご門主でなければ安心の判定をすることができません。
そのためご門主から与奪を受けた勧学が行うのが昨今の習わしとなっています。

なお、与奪というのは、御正忌報恩講の8日間だけご門主の権限の一部を与えられ、報恩講が終われば奪われる(お返しする)ことを意味しています。ご門主のお手替わりということです。

改悔という言葉はあまり普段は聞かないかもしれません。蓮如上人は改悔と同じ意味で「回心」や「懺悔」とおっしゃっています。
「わが身の誤れるところの心中」を回心、懺悔するのです。「わが身の誤れるところの心中」とは自力心であったり異安心であったり、他力安心に反する心をいいます。それに気づかせていただくのが御正忌報恩講です。『御文章』にはこのようにあります。

この七箇日報恩講中においては、一人ものこらず信心未定のともがらは、心中をはばからず改悔懺悔の心をおこして、真実信心を獲得すべきものなり。(註p.1178)

蓮如上人は「ご信心をいただくことが最重要課題」と力説され、早く本願の正意に帰入すべしと教えておられます。

はやく御影前にひざまづいて回心懺悔のこころをおこして、本願の正意に帰入して、一念発起の真実信心をまうくべきものなり。

正しい信心をいただくことこそが、御正忌報恩講の真髄といってよいでしょう。


前述した『龍谷閑話』に「自督安心を御影前において出言せしむるは」とありました。この語からすれば報恩講に参詣されたお同行が、自らいただいたご安心を親鸞聖人の御真影に吐露(出言)するところからこの改悔批判がはじまることになります。


蓮如上人在世は一人ひとりの信仰告白を聞いて、それを上人が判定されていたといいます。しかし人数が増えてくれば、それもままなりません。そして各人がそれぞれ一斉に自分の領解をバラバラに語りだしたのです。
すると堂内はやかましく、誰が何を言っているのかまったくわからくなってしまいました。そこで各人の領解の内容を統一して同じ言葉を唱和しようということで、のちに「領解文」が制定されたのです。


伝承では「『領解文』は蓮如上人が作成した」とするのですが禿氏祐祥先生の「領解文成立考」ではその説を否定されています。
ですから今日行われている改悔批判として儀礼化されたのは、少し時代が下ってのことでしょう。


改悔批判の折に与奪者が「領解出言」とお同行に呼びかける場面があります。すると一斉に参列者が低頭して「領解文」を唱和します。
それを承けて与奪者が「心口各異でないならば麗しきお念仏者です」と判定するのです。これが改悔批判です。
この領解文を東本願寺の真宗大谷派では「改悔文」と呼んでいることも頷けます。

「心口各異」という言葉は、いま出言した「領解文の内容」と「出言者の心」とが「各々異なっていないならば」、つまり「一致しているならば」という意味です。少しでも異なる心を持っているならば「あなたをお念仏者とは呼べません」と判定されるのです。

「信心を賜る」「安心をいただく」とはよく聞く言葉ですが、それを実際にご門主に判断していただく儀式が改悔批判です。

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2023年07月01日