「人は何のために生きているのか」
この命題に答えるのは宗教の役割でしょう。といっても、万人が納得する答えはないのかもしれません。
ただ、「人は○○のために生きている」と簡単に答えを出してしまうと、人生が○○のための手段であり、道具となってしまいます。
「○○こそが幸せであり、○○こそが一番価値があるのだ」という結論は危険です。
自分の人生がひとつの目的のために存在していると考えると、その目的が自分の思い通りに達成できた時だけが意味のある幸せな人生であり、そうではない人生は無意味な不幸な人生であると二項対立に陥ってしまいます。
煩悩具足の自身が作り出した「生きがい」に執われてしまうと、人生がそのための手段や道具になりかねません。
人生が何かのためだけにあると思い込むと、かえって自分を苦しめる結果になります。
ビートたけしさんも著書で「生きる意味」についてよく言及しています。
いまの社会は、人生とは何かとか、人間の生きる意味は何かみたいなことを言いすぎる。
若い人には、それが強迫観念になっている。
何かとそういうことを言う大人が悪いのだ。
自分たちだって、生きることと死ぬことの意味なんか絶対にわかってないくせに。
天国や地獄が本当にあるのかも、神様がいるのかいないのかも、誰も証明したことがないわけだ。
そういう曖昧な状態なのに、生きる意味を探せなんてことを言われたら誰だって迷うに決まっている。
人は何か一つくらい誇れるもの持っている
何でもいい、それを見つけなさい
勉強が駄目だったら、運動がある
両方駄目だったら、君は優しさがある
夢をもて、目的をもて、やれば出来る
こんな言葉に騙されるな、何も無くていいんだ
人は生まれて、生きて、死ぬ
これだけでたいしたもんだ。(『ビートたけし詩集 僕は馬鹿になった。』祥伝社黄金文庫)
仏教、浄土真宗では「成仏するために生きている」「南無阿弥陀仏に出遇うために生きている」というお話もよく聞きます。
松尾宣昭和上の『仏教は何を問題としているのか』には次のように書かれていました。
「食わずには生きてゆけない」。そうです。食わずには生きていけません。食うのは生きるためです。
じゃあ生きるのは何のため? そこにもう理由などありません。(※)
ただただ「生きたい! 生きたい! 生きたい!」と、常に叫んでいる底なしの暗黒。私の肚底、ここからの叫び。これが私の手を動かし、「メシを、野菜を、肉を」をむさぼらせます。
(※)「仏陀となる(因をいただく)ために生きている」というのは、仏陀の眼差しから見た生の意義なのであって、衆生(生き物)の視点ではありません。
生き物たちの生の最深は「自己保存」にあるというしかなく、それはあらゆる意義付けを超えたものだと思います。
もちろん、「仏陀の眼差しから見た生の意義」を私たちが内面化し得ることは言うまでもありません。ただし、それができる諸縁が恵まれている限りにおいて。
浄土真宗は意味を超えた世界、意味を問題としない世界をすくいとします。
合掌