お坊さんの話を聞いていると、定番の話が幾つかあります。
例えば、「世の中で愛は素晴らしいものと考えられていますが、仏教は違います」という話です。
仏教での「愛」とは、サンスクリット語(ヴェーダ語?)の「tṛṣṇā(トリシュナー)」を意訳したもので、「むさぼり」「執着」を意味します。
喉が渇いているものが水を求めてやまないように、あらゆる欲望を満たそうとする心であることから、「渇愛(かつあい)」とも呼ばれます。
貪愛(とんない)、愛欲(あいよく)、恩愛(おんない)といった熟語にします。
しかし、世の中には「愛」という名前の人もたくさん存在します。卓球の福原愛さんや歌手の大塚愛さん、モデルの冨永愛さんなどなど。
実際に私の後輩僧侶の愛さんという方は、「仏教では“愛”に良い意味はない……という法話を聞くと悲しくなる」と話していました。
同じようなパターンで「“幸”という字は、上部の土と下部の干が二本の線で繋がっている。人を繋ぎ止めて自由を奪う枷・手錠を表す象形文字である」と話して、世俗の幸せを否定する法話があります。
ところが、世の中には「幸(みゆき)」や「幸子(ゆきこ)」「幸恵(ゆきえ)」という名前の人がたくさんいらっしゃいます。
なるべくであれば相手の名前に入っている漢字は否定したくないものです。
余談ですが、同じ「愛」でも「preman(プレマン)」「sneha(スネーハ)」を原語とした「愛」は、仏教では肯定的な立場をとります。
こちらは仏さまが衆生に向けるような「ねがい、いつくしむ心」「他人に対する隔てのない愛情」を意味し、「慈悲」に近い概念です。
愛楽(あいぎょう)、慈愛(じあい)といった熟語にします。
合掌