浄土真宗は「阿弥陀仏の力によって、浄土に往き生まれて仏のさとりをひらく」という教えです。
親鸞聖人は「往生(おうじょう)」という言葉の意味を
「往生」といふは、浄土に生るといふなり。
と釈しています。往生とは往生浄土を略したものです。
本願文には「欲生我国(わが国に生ぜんと欲〈おも〉ひて)」とあり、本願成就文には「願生彼国(かの国に生れんと願ずれば)」とあるため、往生とは「捨此往彼(しゃしおうひ|此を捨て彼に往く)」の意味です。
では、具体的には私たちの何が浄土へ往生するのでしょうか。「肉体」でないことは明らかですが、そうすると「魂」が往生するのでしょうか。「意識」や「精神」が往生するのでしょうか。
親鸞聖人が仰がれた七高僧の第二組であるインドの天親(てんじん)菩薩は『浄土論』の冒頭に
世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。
と記しています。この偈門に出てくる「我」が何をさしているのを明らかにすることで、往生の主体が明らかになるのではないでしょうか。
この天親菩薩の「我」について七高僧の第三組である中国の曇鸞大師は『往生論註』に
問ひていはく、仏法のなかには我なし。このなかになにをもつてか我と称する。答へていはく、「我」といふに三の根本あり。一にはこれ邪見語、二にはこれ自大語、三にはこれ流布語なり。いま「我」といふは、天親菩薩の自指の言にして、流布語を用ゐる。邪見と自大とにはあらず。
と述べています。
つまり尽十方無礙光如来(阿弥陀如来)に帰命する「我」とは、「天親菩薩の自指の言」とあるように、天親菩薩がご自身を「我(わたし)」と指し示している言葉です。これは「流布語」に文類されます。
「我」にもいろいろな意味がありますが、ここでは因果の道理を無視して、事故を実体視し、それに執着する邪な見解を表す「邪見語」ではないということです。また自分が他人より勝れていると思う慢心を表す「自大語」でもありません。
仏教では「諸法は無我である」と説いて常住不変の実体を認めていませんが、そうした意味の「我」ではなく、世間一般に使われる言葉、日常語という「流布語」の意味で天親菩薩は「我」を用いています。
もう少し詳しく説明すると、仏教では「諸法無我」といって、諸法(すべての存在)において我(固定的な実体)を認めません。
この我とは「常・一・主宰」をさします。常は不変、一は単独、主宰は主となって宰(つかさど)るの意味です。
繰り返しとなりますが、このような常住不変の固定的実体を認めないのが仏教の立場です。
では、仏教では存在をどのように考えるのでしょうか。
仏教ですべての存在は五蘊が因縁によって仮に結びついていると考えます。五蘊とは色(物質)・受(感受作用)・想(知覚表象作法)・行(受想色以外の心作用)・識(識別作用)のことです。簡単に言うと「身体」と「心」です。
人とは、五蘊が結びついて仮に「人」と名付けているものなので「仮名人」といわれます。
つまり往生とは「穢土の仮名人」が「浄土の仮名人」になることです。
いまここにいる私たちは、煩悩によって穢れた五蘊が仮に結びついた存在です。
臨終の一念に滅ぶとともに、阿弥陀如来のはたらきによって、煩悩の穢れのない清らかな五蘊が仮に結びついた存在である浄土の仮名人として生まれるのが「往生」です。
私たち(穢土の仮名人)は、煩悩によって穢れた因縁によって生じた結果でしかありません。一方で浄土へ往生した私たち(浄土の仮名人)は、煩悩によって穢れていない清らかな因縁によって生じた結果です。
これらは全く同じではありませんが、同一人の相続であるから全く別物とも言えません。
よって現在の私(穢土の仮名人)と往生した私(浄土の仮名人)は不一不異(同じものでもなく、異なっているものでもない)の関係です。
天親菩薩が「我」とご自身の往生を説かれているのは、この不一不異の道理に則っています。【続く】
〈参考『親鸞聖人の教え』より〉