「往生の主体」に関係して「往生」についても記します。
世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。
前回取り上げた天親菩薩のこちらの言葉には「願生安楽国(安楽国に生ぜんと願ず)」とあります。「阿弥陀仏の浄土に生まれようと願う」という意味です。
曇鸞大師はこの「願生安楽国」について
天親菩薩の願ずるところの生(しょう)は、これ因縁(いんねん)の義なり。因縁の義のゆゑに仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生、実の生死(しょうじ)ありと謂(おも)ふがごときにはあらず。
天親菩薩が「阿弥陀仏の浄土に生まれようと願う」とおっしゃったのは「因縁によって生じる」という意味です。「因縁によって生じる」ということをここでは仮に「生まれよう」とおっしゃっています。ですから凡夫が実体として衆生(自分)が存在すると考えて、実体として生まれたり死んだりすることではありません。
と述べています。
「往生」の「生」については
かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざることを明かすなり。なにをもつてこれをいふとならば、それ法性は清浄にして畢竟無生なり。
清浄なはたらきである阿弥陀如来の本願力によって建立された浄土への往生は、さとりへの世界への生です。つまり「無生の生」であって「迷いの世界の生」とは違います。なぜなら、さとりの世界は清浄であり、不生不滅信じるそのものの世界であるからです。
と説明があります。
浄土に「生まれる」といっても「〈生まれない〉という〈生まれる〉」という意味なので、私たちが考えるような「〈生まれる〉という〈生まれる〉」とは異なるのです。ややこしい。
しかし一方で続きには
生といふはこれ得生のひとの情(こころ)なるのみ。
とあります。
「浄土に生まれる」といっても私たちが考えるような「生まれる」とは違うのに、どうしてややこしく「浄土に生まれる」という言葉遣いをするのかというと、それは「実体的に浄土へ生まれる」と受け止めている人たちの心情に従っただけなのです。
つまり「浄土に生まれる」というのは、私たちが考えるような実体的な生ではないと示しつつも、そういった「生」として受け止めていく私たち凡夫の感情を否定しているわけではありません。
曇鸞大師は次のようにも述べています。
問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん
そもそも「無生の生」と知ることができるのは、すでに高い境地に至っている「上品生の人」です。低い境地にいる愚かな「下品生の人」はお念仏のはたらきによって往生するといっても「無生の生」ということは理解できず、実体的な「生」にとらわれています。だから実際には浄土には往生できないのではないでしょうか。もし往生できたとしても、結局は迷いが生じていくのではないでしょうか。
答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。またこれ摩尼珠を玄黄の幣をもつて裹みて、これを水に投ぐれば、水すなはち玄黄にしてもつぱら物の色のごとくなり。かの清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠まします。無量の荘厳功徳成就の帛をもつて裹みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに生見を転じて無生の智となすことあたはざらんや。また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。
二つの問いに対し、譬喩を用いながら「実体的な生にとらわれている下品生の人も名号に力によって往生することができます」「浄土はさとりの世界であるから、往生して後に迷いは生じることはありません」と答えてくださっています。
つまり実体的な生にとらわれて「生まれる」と受け止めている愚かな凡夫の往生については肯定されているのです。
本題に戻ります。「往生の主体」についてまとめると、いまを生きる私は仏教の論理でいえば「穢土の仮名人」です。
しかし愚かな凡夫の心持ちから考えれば、いまを生きているのは「私」としかいいようがありませんし、「私が生きている」としか理解できません。
浄土に往生する私も仏教の論理でいえば「浄土の仮名人」です。
とはいえ、こちらも愚かな凡夫の心持ちから考えれば「私が往生する」としかいいようがありません。
阿弥陀如来の救いや浄土往生は、悲智円具の名号(南無阿弥陀仏)信受のうえに成立します。
そのため「往生の主体が何か」「浄土を実体的に受け止めるか」とは、深川倫雄和上の言葉を借りるのであれば救いの本質には関係のない遊びのようなものです。
その遊びを楽しんで自らの味わいとすることもことも念仏者の嗜みではないでしょうか。
〈参考『親鸞聖人の教え』より〉