浄土真宗の七高僧の第四祖である中国の道綽禅師。
他力念仏をお伝えくださった高僧であるのに、なぜ「禅師」なのでしょうか?
愛読書『季刊せいてん』に詳しく書いてありました。
親鸞聖人の主著『教行信証』「正信偈」に
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
と讃えられる道綽禅師は、中国の幷州(へいしゅう|現在の山西省)で活動された僧侶です。
北斉 → 北周 → 隋 → 唐 ……と次々に王朝が入れ替わる激動の時代で生涯を過ごしました。
中国の高僧の伝記集である『続高僧伝』によると、禅師は若い頃に『涅槃経』の講義を24回も行っていたといいます。
また、慧瓉(えさん)という著名な僧侶に指師していました。
その後、浄土の教えに帰依。曇鸞大師の教えを受け継ぎ玄中寺にて伝道に励みます。
禅師の不思議な能力が評判となり、玄中寺では多数の参詣者が口々に念仏を称えていたそうです。
浄土教の流れにある道綽禅師が、なぜ「禅師」と呼ばれるのでしょうか。
その理由は『続高僧伝』の「習禅篇」(禅定を得意とした僧侶たち)に分類されているからであろうと思われます。
念仏者であった道綽禅師が「習禅篇」に置かれたのは、禅師が称名念仏と同時に阿弥陀仏とその浄土をイメージする行を大事にされていたからです。
この行は中国では習禅のひとつとして捉えられます。
また禅師が浄土教に帰依する以前の人間関係が影響しているのかもしれません。
禅師が師事していた慧瓉は、禅定と戒律とを重視していました。特に仏像の周りを行道しつつ懺悔を行い、仏などの姿を目の当たりにする行である「方等懺(ほうどうせん)」の実践に力を入れていたのです。
『続高僧伝』には慧瓉門下の兄弟弟子である智満(ちまん)と道綽禅師との逸話が伝えられています。
智満が300人以上の僧侶とともに方等懺を実践していたところ、ある僧侶がそれを不審に思って訪ねてきました。
訪ねてきた僧侶と智満が方等懺について議論をしていると、道綽禅師が現れて智満とともに方等懺の意義と方法について僧侶に説明をする……という逸話です。
また、道綽禅師の伝記にも「禅師は『方等』(『方等陀羅尼経』)の実践を行っていた」とあることから、『続高僧伝』の著者である道宣(どうせん)は禅師を「慧瓉門下の一人であり、方等懺の実践者である」と捉えていたようです。
このことから道綽禅師を慧瓉・智満と同じく「習禅篇」に置いたのでしょう。
〈参考『季刊せいてん』より〉