有相と無相

浄土真宗の七高僧の第四祖である道綽禅師は、曇鸞大師から浄土の教えを継承した念仏者ですが、書物によっては禅定を重んじる僧侶と位置づけられることもあったようです。


『続高僧伝』の「智満」の項に、体調を崩した晩年の智満のもとに道綽禅師が訪ねた際のエピソードが記されています。


禅師は兄弟子の智満に対して「仏道には機縁があり、空の教えを理解することは困難です。あなたは具体的なすがた(有相)で説かれる浄土を願生すべきでしょう」と告げました。


しかし智満は「あらゆる事物に実体はない」と受け止める無相の立場から禅師の言葉を聞き入れず「早く帰ってくれ」と強く言い返します。


当時の仏教界は『仏説無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれているような姿形のある浄土への往生に反対する僧侶がいました。智満もその一人です。


対して、禅師は上記のエピソードにあるように高名な兄弟子に対しても有相の浄土願生を主張しています。


主著である『安楽集』にも、有相の浄土が説かれる意義を繰り返し述べています。


『安楽集』第二大門では「有相の浄土ではなく、無相を重視すべきだ」という批判に対して「無相にとらわれすぎると、かえってさとりを求めなくなってしまう危険性がある」と主張し、有相を否定することは誤りであることを指摘しています。


『安楽集』第六大門では現在が末法であることを提示した上で『無量寿経』もとづいて、「階位の高い者は無相を理解して往生するが、凡夫の場合は浄土の相にもとづいて往生するのである」と明らかにしています。


阿弥陀如来の大いなる慈悲によって建てられた浄土には、さとりに至る能力を持ち合わせていないために有相によらざるをえない凡夫も往生できるということです。禅師が智満に告げた言葉と合致します。


現代の私たちも「事物は本来固定的なすがたを持たない」と聞いても、理解や実践は困難です。
日々の生活に追われ、目の前の出来事に一喜一憂して振り回されているのが現実ではないでしょうか。


禅師は「そのような者のためにこそ浄土は示されている」と、「有相」の言葉を用いて往生浄土の道をお示しくださいました。


禅師の師事した曇鸞大師の著述には「有相」の語はありません。曇鸞大師から受け継いだ阿弥陀如来の慈悲を、「無相」にとらわれる当時の人々や仏教界に伝わるように禅師が工夫をして活動なさっていたことがうかがえます。

〈参考『季刊せいてん』より〉

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2022年10月01日