凡情

パソコンのファイルを整理していると、10年前くらいに作った自分の法話がありました。


時事ネタや社会問題から始まり、心理学や哲学の言葉を引用しながら、原始仏教の視点で締めくくる……今になって改めて読むと、とてつもなく理屈っぽい内容です。


七高僧の第四祖である道綽(どうしゃく)禅師は、『安楽集(あんらくしゅう)』に

ただ浄土の一門のみありて、情をもつて悕ひて趣入すべし。

と述べられています。


江戸時代の先哲も、「凡情を遮せず」とおっしゃっているように、浄土教とは私たちの素朴な感情に根ざした教えです。


桐渓順忍和上の『親鸞はなにを説いたか』には、次のような文章があります。

往生成仏する場所としての浄土、阿弥陀如来の依報(如来の住む場所)としての浄土──この浄土思想には、いろいろな問題があります。

『仏説阿弥陀経』には西方十万億仏土を過ぎて」といい、

『仏説観無量寿経』には「ここを去ること遠からず」といい、

『浄土論』や『往生論註』には、浄土の相を二十九種に説いて、空間的には「広大にて辺際なし」とあり、

善導大師は「西にあって小をあらわしたのは、ただこれ、しばらく機にしたがったのである」いい、

親鸞聖人は「無量光明土」だとおっしゃっています。

「西方十万億仏土を超えた遙かなところである」といわれたかと思うと、「ここを去ること遠くない」とも表現されている。

また「空間的に辺際のないところ」であり、「西方に浄土がある」といったのは、「人間に分かるように」であるとも説き、「私たちの思議を超えた無量の光明の土」だとも表現されています。

このように、いろいろな表現が異なっているのは、「浄土は人間の思惟では知ることのできないものである」ということを示そうとしているのでしょう。
しかも親鸞聖人は、浄土を表現なさる場合には「極楽」という文字と「西方」という文字の使用が比較的に少ないです。
このことは何かを暗示しているものではないでしょうか。
「極楽」という文字は『唯信鈔文意』の所釈の文に出ています。

「西方」の文字は『浄土文類聚鈔』「念仏正信偈」のはじめに「西方不可思議尊」とあり、法然聖人の語録などを集めたものに「西方指南鈔」と名付けられた以外には、あまり用いられていません。

これは浄土を「西方」と限定したり、「極楽」という感覚的な表現に、何かしらの抵抗を感じられたからではないでしょうか。

では「浄土」について、どのように考えたらよいのでしょうか。

これは古人は「凡情に遮せない」とおっしゃっています。
「浄土のすがたについては、凡夫の思いのままにしておけ」という意味でありましょう。
「浄土の問題は、(悪の方向にさえあやまらなければ)私たちの思いを否定しないので、思いのままに思わせておけ……」ということであります。考えさせられるものがあります。

合掌

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2020年08月02日