『阿弥陀経』を読む15

★正宗分ー依正段「極楽名義」①

舎利弗(しゃりほつ)、かの土(ど)をなんがゆゑぞ名づけて極楽(ごくらく)とする。その国の衆生(しゅじょう)、もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受(う)く。ゆゑに極楽と名づく。
舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるのでしょうか。その国の人びとは、何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから極楽というのです。

先生|今回からお釈迦さまが【極楽】と名付けた世界が、どうして極楽と名付けられたのかをうかがっていこう。

阿弥|前文で端的にまとめておっしゃったことを、改めて詳しくお釈迦さまが述べてくださるんですね。

先生|ここからは正宗分の依正段の中でも依報段(えほうだん)と呼ばれる部分で、極楽浄土の様子が詳しく説かれているんだ。
   読経するときには鏧(きん)という鐘が「ゴーン、ゴーン、ゴーン」と3回鳴るまで続くよ。


阿弥|そういえば先生は「浄土」とか「極楽」とか「極楽浄土」とか、仏さまの世界についてさまざまな言い方をしますけど、すべて同じ意味と理解してもよろしいですか?

先生|うーん、厳密には少し違うかな。

阿弥|えっ、どう違うんですか?

先生|浄土とは「清浄なる国土」のことだよ。


阿弥|清浄? きれいな世界が浄土なんですか?

先生|仏教では煩悩の穢(けが)れがないこと──つまり、「仏さまのさとり」を清浄と表わすんだ。
   そして、浄土に対して私たちの住む煩悩に満ちあふれた世界「穢土(えど)というよ。

阿弥|私たちが今いるのは「煩悩に満ちあふれた世界」なんですか……。

先生|煩悩とは、簡単に言うと「欲望」あるいは「自己中心的なあり方」のことだよ。


阿弥|そうはいっても、人間はみんな自己中心だと思うんですけど……ダメなことですか?

先生|自己に執(とら)われているというあり方によって苦を生み出し、あるいは争いを引き起こしているのが私たちだからね。
   そうした不完全で不確かである私たちの世界を超えたさとりの世界が「浄土」なんだよ。


阿弥|じゃあ浄土って固有名詞じゃなくて、普通名詞なんですね。

先生|阿弥陀如来の世界だけでなく、他のどの仏さまの世界も「浄土」というんだ。

阿弥|浄土ってたくさんあるんですね。

先生|例えば阿閦仏の浄土は「妙喜(みょうき)、薬師如来の浄土は「浄瑠璃(じょうるり)といった具合だね。
   その中でも阿弥陀如来の浄土を「極楽」「極楽浄土」というんだよ。


阿弥|じゃあどうして阿弥陀如来の浄土を「極楽」と呼ぶのか……が今回からの話でしたね。

先生|まずはお釈迦さまが舎利弗に対して「どうして極楽と呼ぶのか知ってますか?」と問うことから始まるんだ。

阿弥|お釈迦さまも弟子にクイズを出したりするんですね~。意外!
   舎利弗さんはちゃんと答えることが出来たんですか?

先生|舎利弗は何と答えたかというと……実は経文には舎利弗の答えはなくて、すぐ続きにお釈迦さまご自身による答えが「その国の人びとは、何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから極楽というのです」と述べられているよ。


阿弥|え~っ! お釈迦さまもせっかちですねぇ。

先生|どうしてそう思うの?

阿弥|だって舎利弗さんは「智慧第一」で、なんでも知っているはずなんだから、答えるまで待ってあげればいいのに。

先生|実は舎利弗はお釈迦さまの問いに対して、「答え損なった」わけでもなければ「答えなかった」わけでもないんだ。


阿弥|じゃあなんで黙っていたんですか? まさか居眠りでもしてたんじゃ……。

先生|答えられなかったんだよ。分からなかったから。

阿弥|智慧第一の舎利弗さんに答えられないことや分からないことなんてあるんですか?

先生|確かに舎利弗の智慧は私たち人間にとって最高の智慧には変わりないんだけど、その最高の智慧をもってしても計り知ることのできない深い真実が浄土であり、阿弥陀如来であることをここでは示しているんだ。

阿弥|人間の知識を超えた話ということですか? そんな話は誰が聞いたって分からないんじゃ……。

先生|そうだね。だから私たちは、日ごろ誇っている知恵を傍らに置いて愚かな自分にかえり、ひたすら「分からないことを分からないままに」とお釈迦さまの言葉をそのまま信受するほかはないんだよ。


阿弥|そんなのただの思考停止じゃないですか。
   聞いて考えてもよく分からないということは、やっぱり文明や科学の発展していない昔の人たちが考えた「おとぎ話」や「絵物語」のような空想上の作り話なんですね……。

先生|そう考える現代人は多いけど、どれだけ文明や科学が発展していろいろなことが分かるようになったとしても、「死んだら自分はどうなるのか」はもちろん「明日の自分のこと」だって分からないのが本当なんじゃないかな?

阿弥|そうですけど……別に分からなくても生きていけますよ?

先生|でも私も阿弥さんも明日──いや、次の瞬間に何かがあって死んでしまってもおかしくはないんだよ?

阿弥|それは極論で言えばそうなりますけど……にそんな縁起の悪い話をしないでくださいよ。

先生|「良い」「悪い」と私の物差しで計るんじゃなくて、「それがいのちの真実だ」と教えるのが仏教だからね。
   生まれた以上は誰もが死んでいかなければいけないし、しかもそれが「いつ」「どこで」「どんな形か」は誰にも分からない。
   そんな中で死が目前に迫ったとき、阿弥さんは「『死んだら自分はどうなるのか』なんて分からなくてもいい」って言える?


阿弥|うーん……。

先生|死だけじゃなく、人間関係や将来への不安、大きな病気といった自分の力と知識ではどうしても乗り越えることができない壁にぶつかる日が、人間には遅かれ早かれ必ずやってくるんだよ。

阿弥|……そういったどうしようもないとき、私はどうすればいいんですか?

先生|自分の力で分からないことは、やっぱり分かっている方に聞くしかないんじゃない?

阿弥|どういうことですか?


先生|例えば、もしも山で道に迷ったときに、バッタリと人に会うことができたらどう思う?


阿弥|「よかった~。助かった!」って思います。

先生|その人が「実は私も迷ってるんです」と言ったら?


阿弥|はぁ? そんなの最悪じゃないですか!

先生|分からない者同士、迷っている者同士が集まったって何の解決もしないんだね。


阿弥|分かっている方が仏さまということなんですね。

先生|「死んだら自分はどうなるのか」「なんのために生きているのか」をはじめとした人智の及ばない世界のことは、私たち凡夫がいくら集まっても答えは見出せない。
   解決することができる道は、真実の智慧を究めた仏さまの言葉に聞き従うのみ……ということを教えてくださっているのが「お釈迦さまの問いに舎利弗の答えがなく、お釈迦さま自らが答えを説く」という「自問自説」の教説なんだ。

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2018年12月09日