★正宗分ー依正段「極楽弥陀」②
その時、仏(ぶつ)、長老(ちょうろう)舎利弗(しゃりほつ)に告(つ)げたまはく、「これより西方(さいほう)に、十万億(じゅうまんおく)の仏土(ぶつど)を過ぎて世界あり、名づけて極楽(ごくらく)といふ。その土に仏まします、阿弥陀(あみだ)と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。
そのときお釈迦さまは長老の舎利弗に仰せになりました。「ここから西の方へ十万億もの仏さまがたの国々を過ぎたところに、極楽と名付けられた世界があります。そこには阿弥陀仏と申し上げる仏さまがおられて、今現に教えを説いておいでになります。
先生|このように「お浄土があるぞ。阿弥陀如来がいらっしゃるぞ」と、浄土と阿弥陀如来の存在をお釈迦さまが舎利弗に対して真っ先に告げるところから『阿弥陀経』の説法は始まったんだ。
阿弥|聞いてもないのにお釈迦さまから急にそんなことを言われたら、頭の良い舎利弗さんでも「えっ、どこに?」って戸惑ってしまうんじゃないでしょうか。
先生|だからお釈迦さまは
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり
私たちのいるこの世界から西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに世界がある
と最初に説いてくださっているよ。
阿弥|ということは私たちも西へずっと進んだら、いつかは阿弥陀如来がいる世界にたどり着けるんですね!
……あれ、でも地球は丸いから今の場所に戻ってきてしまうんじゃ?
先生|実はこの教説は地理的な説明をしているわけじゃないんだ。
そもそも「浄土」「涅槃」といった世界は、仏さまの絶対的な境地であって、本来は色も形もないから、「日本」とか「学校」のような実際に目に見えて存在する場所とは違うんだよ。
阿弥|じゃあどうしてわざわざ「西にずっと行くとあるよ」なんておっしゃったんですか?
先生|色も形もないような世界は私たちに受け止めることができないから、敢えてお釈迦さまは「心が散乱としている凡夫が思いを寄せることのできる方向」を定めてくださったんだろうなぁ。
阿弥|そうしたら、なぜ「西」なんでしょうか? 心を向ける方向を定めるだけなら、別に東でも北でも南でもいいのに。
先生|中国の道綽禅師(どうしゃくぜんじ)という高僧は
閻浮提(えんぶだい)には、日の出づる処を生と名づけ、没する処を死と名づくといふをもつて、死地によるに神明の趣入その相助便なり。
私たちの住んでいる世界(閻浮提)では、日が昇るところを「生」と名づけ、日が沈むところを「死」というから、いのちが終わるにいたって、こころを寄せていくのに都合がいいのです。
と人生の終わりの象徴として太陽が沈む「西」の方向が示されたことを教えてくださっているよ。
阿弥|太陽の動きを私たちの人生に重ねたんですね。
先生|さらに「死んでいかなければならない私のいのちの向こうには、阿弥陀如来のご用意くださった浄土がある」と明らかにして、人生の最後に帰すべき世界があることを「西」の方向で示したんだ。
阿弥|「西」の意味は分かりましたが、次の【十万億の仏土を過ぎて】ってどれくらいの距離なんですか? なんとなく遠いのは伝わってきますけど……。
先生|「大阪工業大学の山内俊平元教授が『十万億の仏土』という距離をさまざまな仏教書をもとに計算した結果──100,000,000,000,000,000光年だった」と昔の『朝日新聞』に掲載されていたそうだよ。
阿弥|……数字が大きすぎてイマイチ分からないんですが。
先生|万→億→兆→京だから、10京というのは10の17乗だね。
もしも光の速さで移動することができても、1億年の10億倍はかかるということだよ。
阿弥|……説明を聞いてもピンと来ないです。
先生|「どんなにもがいても、行けない距離。日々精進して、来世のことは仏さまにおまかせする。極楽への道はこうした心の持ちようだと、悟りました」と山内元教授は取材に対して語ったんだって。
阿弥|でも結局は「西」と同じで「十万億の仏土」も物理的な話ではないんですよね?
先生|そうそう。例えば、好きなアイドルに対して「手が届かない遠い存在」と言うときは、目に見える近い遠いの距離の話ではないよね。
阿弥|物理的だったり心理的だったり、あとは格差や地位とか、確かに距離にもいろいろありますね。
先生|それだけではなく仏教でこうした大きな数字が出てきたときは「無限」ということで、ほとんどの場合、「仏さまの絶対的なさとり」を表わしているんだよ。
阿弥|すると「十万億」じゃなくて「無限の仏土を過ぎた」でも良さそうな気がしますけど。
先生|最初に「西」という私たちの分かる方向で浄土を実体的にさし示したから、ここでも具体的な距離を数字で出したんだ。
さらにその距離を想像できない天文学的な数字で説くことで、浄土が私たちの知恵の及ばない境地であることをお釈迦さまはお示しくださったんだろうね。
阿弥|どうしてそこまで具体的な表現をするんですか?
先生|「極楽が間違いなくある」と聞き手に示すためじゃないかな。
阿弥|じゃあ「極楽は間違いなくありますよ」と説けば済むような……。
先生|例えば……突然だけど、ぜひ阿弥さんに行って欲しい凄くオシャレな喫茶店がオープンしたんですよ。
阿弥|えっ、本当ですか?
先生|もちろん。
阿弥|どこにあるんですか?
先生|ここから大通りを西に300メートルくらい行った交差点にあるよ。
阿弥|知りませんでした! いつできたんですか?
先生|先月くらいだったかなぁ。
阿弥|もっと早く教えてくださいよ! なんて名前のお店ですか?
先生|「縁(えん)」というお店だよ。
阿弥|どんなお店なんですか?
先生|こじんまりとしているけど、とても居心地がいい内装だったよ。
感じの良い店主がひとりで切り盛りをしていて、朝から自家焙煎した珈琲が楽しめるのがウリみたい。
阿弥|ありがとうございます! 今度さっそく行ってみますね!
先生|……とまぁこんな具合に、新しくできた喫茶店が間違いなくあることを示すには、「方角」「距離」「名前」といった情報を相手に明らかにする必要があるんだ。
阿弥|あ、そういうことか。具体的な表現って相手に対象の存在を信用してもらうために必要なんだ。
先生|「極楽」が間違いなく存在することを示すために、「方角」や「距離」を詳しくお釈迦さまは説いてくださっているんだね。
阿弥|だけど、あまりに具体的な表現があると、「極楽は地球上や宇宙のどこかに実在するのかな?」と私みたいに勘違いする人も増えるんじゃないでしょうか。
先生|そこで【過ぎて】という言葉が使われているんだ。
阿弥|これは「十万億の仏土を過ぎた向こう側に極楽という世界があります」というだけの話ではないんですか?
先生|この「過ぎて」は「経過」「通過」のようにAからBへ通り過ぎていく意味ではなくて、「超過」のように一定の限界を遥かに超越しているという意味があるよ。
阿弥|「十万億 + α(過)= 極楽」ではなく、「十万億 × ∞(過)= 極楽」ということだったんですね。
先生|つまり、浄土は人間の煩悩の延長線上にある世界ではなくて、私たちの知恵を超え勝れた別次元のさとりの世界であるということだね。
さらに、相対をどれほど重ねても絶対にはならないように、自分の力を重ねることでは阿弥陀如来の浄土に達することが不可能であることも表わしているんだ。