『阿弥陀経』を読む16

★正宗分ー依正段「極楽名義」②

舎利弗(しゃりほつ)、かの土(ど)をなんがゆゑぞ名づけて極楽(ごくらく)とする。その国の衆生(しゅじょう)、もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受(う)く。ゆゑに極楽と名づく。
舎利弗よ、その国をなぜ極楽と名づけるのでしょうか。その国の人びとは、何の苦しみもなく、ただいろいろな楽しみだけを受けているから極楽というのです。

阿弥|どうしてお釈迦さまは阿弥陀如来の浄土を「極楽(ごくらく)」と名付けたんですか?

先生|なんでだと思う?


阿弥|そりゃあ「極楽」というくらいだから、美味しい食べ物があって、面白い娯楽で溢れた退屈しないところなんじゃないですか?

先生|恐らく、世間一般の人は阿弥さんと同じように「極楽とは、人間の欲望を満たす快楽的な世界である」と誤解をしているだろうね。

阿弥|誤解? 違うんですか?

先生|中国の曇鸞大師(どんらんだいし)という高僧は

かの安楽浄土(あんらくじょうど)に生(しょう)ぜんと願(がん)ずるものは、かならず無上菩提心(むじょうぼだいしん)を発(おこ)すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間(ひま)なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生(おうじょう)を得(え)ざるべし。
お浄土に生まれようと願う人は、無上菩提心というこの上ないさとりを求める心をおこさなければいけません。この心をおこさずに、「お浄土は絶え間なく楽しみを受ける」とだけ聞いて、楽しみを貪るために往生を願うのであれば、往生できません。

と教えてくださっているよ。


阿弥|じゃあどんな世界なんですか?

先生|「もろもろの苦あることなく」と説かれているように、ありとあらゆる苦しみの存在しない世界なんだ。

阿弥|「もろもろの苦」って具体的にはどんな苦しみのことですか?

先生|この『阿弥陀経』には詳しく説かれていないけど、原典であるサンスクリット本には身体の苦しみ心の苦しみと述べられてるね。


阿弥|身の苦しみや心の苦しみにもいろいろとあると思いますけど……。

先生|曇鸞大師は身の悩みについて「飢えや渇き、寒さや熱さ、傷や怪我など」、心の悩みについて「認められたり認められなかったり、得たり失ったり、三毒の煩悩など」とおっしゃっているよ。

阿弥|挙げたらキリがないですね。

先生|だから『阿弥陀経』では「もろもろの苦」と説かれたんだ。「身心の苦しみ」としてしまうと、身の悩みや心の悩み程度の話で聞き手が受け取る恐れがあるからね。


阿弥|「身の悩みや心の悩みのない世界が極楽」という理解ではダメなんですか?

先生|「もろもろの苦があることなく」が極楽なんだ。

阿弥|だから「苦しみがない世界が極楽」なんですよね?

先生|いや、この「あることなく」は「あることがない」という意味だから、ただの「ない」とは違うんだよ。


阿弥|ややこしい……どういうことなんでしょうか?

先生|例えば、果物屋に行って「バナナをください」と聞いたときに、店頭に仕入れていなければ「バナナはないです」と言われるよね。

阿弥|はい、そうですね。

先生|ところが、肉屋に行って「バナナをください」と聞いたらどうかな?

阿弥|「うちにバナナはあるはずないでしょう」と怒られますよ。

先生|つまり、極楽には「もろもろの苦」がたまたま「ない」のではなく、最初から「あるはずがない」ということだね。
   極楽は「苦」という概念や言葉すら存在しない世界なんだよ。


阿弥|じゃあ結局は「苦しみがない楽しいだけの世界」ということですよね。
   それって私が最初に言った「美味しい食べ物があって、娯楽で溢れた世界」と何が違うんですか?

先生|実は「極楽」の「楽」は私たちの考える「楽」とは違っていて……最近、何か楽しかったことってある?


阿弥|最近ですか? そうだなぁ……この前の休みの日に友人たちとディズニーランドに行ったことですかね。

先生|ということは、もしもディズニーランドがなくなってしまったり、もう行けないとなったらどう?

阿弥|苦しい……というか悲しいし、嫌です。

先生|つまり、「ディズニーランドがあるという楽しみ」が、「ディズニーランドがないという苦しみ」を生み出しているんじゃないかな?

阿弥|はぁ……?

先生|反対に、何か苦しいことってある?


阿弥|ディズニーランドで散財してしまって金欠なことです。

先生|もしも今、臨時収入があったら幸せだよね?

阿弥|そりゃあもちろん!

先生|つまり、お金がないという苦しみが、お金があるという楽しみを生み出しているんじゃないかな?

阿弥|どういう意味ですか?

先生|要するに、私たちの世界はどこまでいっても「苦楽相対の世界」なんだ。


阿弥|苦楽相対?

先生|苦が楽に転じることがあれば、その楽がまた苦に転落する世界ということだよ。

阿弥|楽しみと苦しみって、紙の表と裏と同じような関係なんですね。

先生|私たちの楽は、どこまでいっても苦と隣り合わせの空虚なものだからね。
   かえって悲しみや苦しみを生むもとになりかねないんだ。


阿弥|確かに「若くて健康で長生き」が幸せな楽しい話と決めてしまうと、その逆である「老化や病気、死」は不幸で苦しい話となりますね。

先生|ところが、どこまでいってもその苦楽相対の世界から抜けだすことができないのが私たち人間じゃないかな。

阿弥|そりゃあ、どうやっても「老化や病気が幸せ」なんて思えませんよ。
   だからこそ、現代は医療や科学が発達したんじゃないですか?

先生|人間の営みは常に「楽」へ向かっているからね。
   だけど、どうやったって誰も老病死は避けられないよ。


阿弥|そう言いますけど、世の中には「病気が治る」「長生きできる」と、「楽」に光を当てる宗教もありますよ。

先生|人間の欲望を助長するようなご利益宗教かぁ。
   厳しい現実から目を背けてしまう自分の弱さを知る意味では必要かもしれないけど……お釈迦さまの真実の言葉から耳を遠ざけようとするものは仏教とはいえないね。

阿弥|その場しのぎではいけないんですね。

先生|苦楽に迷い続け、そこから抜け出すことができない苦しみを超えた世界が「極楽」なんだ。

阿弥|相対じゃないことを、絶対というんですね。

先生|ここでは「極」という字が「絶対」を表わしているんだね。
   「(人間の世界の)もろもろの苦」に加えて、「(人間の世界の)もろもろ楽」を超えた世界であることを「ただもろもろの楽を受く」と表現しているから、阿弥陀如来の浄土を「極楽」と呼ぶんだよ。


阿弥|「ただもろもろの楽を受く」ってどんな「楽」なんですか?

先生|曇鸞大師は「楽」について、

○外楽(げらく)・・・身体的(眼・耳・鼻・舌・身の五識)な楽しみ
○内楽(ないらく)・・・精神的(意識)な楽しみ
○法楽楽(ほうがくらく)・・・さとりの智慧から生じる仏法を愛楽(あいぎょう|味得)する楽しみ

と示しているね。

阿弥|ひとつ目の物質的な楽しみと、ふたつ目の精神的知的な楽しみはなんとなく分かるんですが、みっつ目がよく分かりません。

先生|「人間の世界の楽しみを超えた仏さまから賜る楽しみ」だよ。


阿弥|「人間の楽しみ(と苦しみ)を超えた楽しみを受ける世界が極楽」って言われてもよく意味が分かりません……。

先生|仏さまのさとりの世界は、相対を超えた絶対の世界だからね。
   私たちが聞いて分からないのは無理もないよななぁ。

阿弥|想像すらできませんし、行ってみたいとも思いませんよ。

先生|そこで阿弥陀如来は、色も形もない絶対なるさとりの世界から、色も形もある相対的な表現によって浄土をご用意くださったんだ。


阿弥|色も形もあるなら、少しイメージができるかもしれません。

先生|お釈迦さまが阿弥陀如来の浄土を「ただもろもろの楽を受く」「極楽と名づく」と「楽」の文字を用いて説いたのは、「私たちが受け止めやすい相対的な表現を敢えて選んでくださった」と味わうこともできるね。

阿弥|インパクトがある名前ですけど、同時に誤解を受ける名前ですね。

先生|浄土真宗の宗祖である親鸞聖人が「極楽」という言葉を著述であまり用いていないのは、そうした誤解を避けたかったからかもしれないなぁ。


阿弥|でも「極楽」という言葉を使わずに阿弥陀如来の浄土を表現できるんですか?

先生|「極楽」は、サンスクリット(古代インド)語の「sukhāvatī(スカーヴァティー|幸福のあるところ)」の翻訳語なんだ。
   他に「安養国(あんにょうこく)」「安楽(あんらく)」といった別の言葉に訳されて経典に登場するよ。

阿弥|「安らかな国」といわれると、ちょっと受け止め方が変わってきますね。

先生|もちろん、「極楽」も「安養国」も同じ阿弥陀如来の浄土をさしていることを忘れずにね。

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2018年12月16日