浄土真宗における利益(りやく)は、大きく二つにわけことができます。
一つ目が今を生きるこの時、信心を賜ると同時に得る「入正定聚(にゅうしょうじょうじゅ)の益(やく)」です。
「入正定聚」とは「間違いなくさとりに至る身となった仲間に入る」という意味です。
二つ目が来生において浄土に往生すると同時に得る「滅度(往生即成仏)の益」です。
「滅度」とは「煩悩を滅して迷界を度(わた)る」、つまり「さとりに至る」という意味です。
それぞれ「現益」「当益」といい、蓮如上人は『御文章』に
問うていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころ
うべきや。
答へていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。
と問答を設けて、二つの利益を混同してはいけないとおっしゃっています。
「浄土に生まれる」という未来の利益を、現在の我が身に「浄土に生まれさせていただくのは有り難いことであるな」という宗教感情として起こさせる説示が経典にはさまざまに説かれています。
代表的なのが『仏説阿弥陀経』の「倶会一処(くえいっしょ)」の説示です。「ともに一処に会する」と読みます。
『仏説阿弥陀経』は、お釈迦さまが祇園精舎で舎利弗をはじめとする1250人の仏弟子を相手に説かれた教典です。
まず説法の場所や聴衆の詳細が説かれ、続いて極楽浄土の麗しい様子と仏・菩薩などの尊い徳が説かれています。
これらの内容を受けて
舎利弗、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。
とお釈迦さまが舎利弗に語りかける場面があります。
「衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし」とは「〈ぜひとも阿弥陀如来の浄土に生まれたい〉と願いましょう」と、迷いの世界で苦しむ私たちに対してお釈迦さまがこれまで説かれてきた浄土への願生をおすすめくださっているお言葉です。
その具体的な理由として、お釈迦さまは「かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり」とおっしゃっています。
「かくのごときの諸上善人」とは、浄土の一生補処(いっしょうふしょ)の大菩薩のことです。
数が多いので「諸」とあり、「上善人」と「上」がついているのは勝(すぐ)れていることを表しています。
「善人」とは「煩悩の汚れにまみれていない勝れた善をそなえた人」です。
つまり「倶会一処」とは「浄土に往生すると多くの上善人と倶に同じ一つの場所に集まって、さまざまな法味楽を受ける」という説示です。
『仏説阿弥陀経』では「浄土の素晴らしい聖者たちと倶に同じ浄土に集うことができますよ」と、私たちに浄土へ往生するようにお釈迦さまが勧めてくださっています。
以上のように『仏説阿弥陀経』の「倶会一処」の説示をそのまま読むと「一生補処の大菩薩たちと同じ一つの場所に集まって、さまざまな法味楽を受ける」という意味になりますが、やはり私たち凡夫が浄土を思うときには「倶会一処」は特別な意味を持つように感じます。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の主著『教行信証』「真仏土文類」には
『論』(浄土論)には「如来浄華衆 正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」(論註・下 一二〇)といへり。
とあります。
真実の浄土への往生とは、阿弥陀如来の清らかなさとりの華からの化生です。また、誰もが同じ念仏(信心)を因として浄土へ生まれるのであり、その他の因によって往生するのではありません。
対して真実でない化土への往生については
まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。
とあります。
方便化土に往生する自力の因は、人によってそれぞれ異なります。ですから往生する浄土も全員異なります。
私たちの行いではなく、阿弥陀如来より賜る他力の信心を因とするからこそ、みなともに同じ真実の浄土へと往生ができるのです。
親鸞聖人は弟子(高田の入道)に宛てた消息の返信には
かくねむばうの御こと、かたがたあはれに存じ候ふ。親鸞はさきだちまゐらせ候はんずらんと、まちまゐらせてこそ候ひつるに、さきだたせたまひ候ふこと、申すばかりなく候ふ。かくしんばう、ふるとしごろは、かならずかならずさきだちてまたせたまひ候ふらん。かならずかならずまゐりあふべく候へば、申すにおよばず候ふ。かくねんばうの仰せられて候ふやう、すこしも愚老にかはらずおはしまし候へば、かならずかならず一つところへまゐりあふべく候ふ。
と記されています。
先立った覚信坊(かくしんぼう)が「間違いなく先に浄土でお待ちになっていることでしょう」「ともに浄土に往生する」と述べ、同じく先立った覚然坊(かくねんぼう)の信心は親鸞聖人ご自身と同一であるから「かならずかならず一つところへまゐりあふべく候ふ」と、一処に生まれること間違いなしと述べられるのに「かならず」を二度も重ねて強調しています。
さらに聖人は門弟の有阿弥陀仏に送った手紙にも
念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
と述べられた後に
この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。
と「先に往生するはずの自分は、浄土で必ずあなたをお待ちしております」とおっしゃっています。
どちらのお手紙にも懐かしい念仏者と再び浄土で相見ることができる喜びが吐露されているのであり、「かならずかならずさきだちてまたせたまひ候ふらん。かならずかならずまゐりあふべく候」や「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候」とあるのも、『仏説阿弥陀経』の「倶会一処」を拠りどころとしてのお言葉でしょう。
私たちには親鸞聖人をはじめとする浄土教の祖師方はもちろんのこと、ともに念仏を喜んだ懐かしい有縁の方々との再会の場が間違いなく用意されているのです。
〈参考『親鸞聖人の教え』より〉