本願寺派第八代宗主である蓮如上人は、
教化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。(註釈版p.1236)
【現代語訳】「人を教え導こうとするものは、まず自分自身が信心を決定した上で、お聖教を読んで、そのこころを語り聞かせなさい。そうすれば聞く人も信心を得るのである」と仰せになりました。
と語られます。「教化はまずわが身の信心決定のうえからなされるべきである」といわれています。
さらに
信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。(註釈版p.1261)
【現代語訳】実如上人が順誓に「〈自分が信心いただいていないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、自分が何もものを持っていないのに、人にものを与えようとするようなものです。これでは人が承知するはずがありません〉と、蓮如上人はお示しになった」と仰せになりました。そして「『往生礼讃』に〈自信教人信〉とあるのだから、まず自分自身の信心を決定して、そのうえで他の人々に信心を勧めましょう。これが仏恩報謝となるのです。自分自身の信心を決定してから人に教えて信心を勧めるのは、すなわち仏の大悲を人々にひろく伝える〈大悲伝普化〉ということです」と、続けて仰せになりました。
とおっしゃっています。
従来、伝道布教は「自信教人信」という言葉に尽きるともいわれてきました。
その理由は本願寺中興の祖といわれ、希代の伝道者と讃えられる蓮如上人が、この言葉に浄土真宗の教化の根本精神をご覧になっていたからです。
「自信教人信」という言葉は、もともとは『仏説無量寿経』下巻の流通分の
もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。(註釈版p.81)
この文意を受けて、七高僧の第五祖である中国の善導大師が『往生礼讃』初夜礼讃に
みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。(註釈版七p.676)
と述べられたことに由来します。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は主著『教行信証』に「自信教人信」の語を二カ所引用しています。一つは「信巻」の末にある真仏弟子釈です。
『大悲経』にのたまはく、〈いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく〉」と。(註釈版 p.260)
自らが阿弥陀仏の本願他力の教えをよろこび(自信)、他の人々にもその尊い法を伝えてお念仏を勧めていく(教人信)という「常行大悲の益」を述べて、その後に
またいはく(礼讃 六七六)、「仏世はなはだ値ひがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもつとも難しとす。みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し。大悲弘くあまねく化する、まことに仏恩を報ずるになる」と。(註釈版 p.260)
と、『往生礼讃』の「自信教人信」を引用しています。
ここに出てくる「難」とは具体的に
「値仏の難」(仏さまが出現する世界に生まれることの難しさ)
「獲信の難」(信心の智慧を得ることの難しさ)
「聞法の難」(尊き法を聞くことの難しさ)
「教化の難」(人々を教え信ぜしめていくことの難しさ)
以上の四つの「難」が挙げられます。
親鸞聖人は「自信教人信」の文の引用によって他力念仏の行者にそなわる「知恩報徳の益」を明らかにしています。「常行大悲の益」も「知恩報徳の益」も、ともに本願他力に帰した念仏者にそなわる「現生十種の益」のひとつです。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。(註釈版 p.251)
と「信文類」にあるように、他力信心に生きる人に具わる現世の利益が「自信教人信」という「知恩報徳の益」なのです。
親鸞聖人は「自信教人信」の語を「化身土巻」にも引用しています(註釈版 p.411)。ここでは自力の念仏に「自信教人信」の心がないことを明らかにしています。
したがって、「信巻」の「自信教人信」は本願他力によって得られる利益を示し、「化身土巻」の「自信教人信」は、自力の念仏によって失われる利益を誡めていることになります。
ちなみに善導大師の『往生礼讃』では「大悲をもつて伝へてあまねく化するは(大悲伝普化)」とある文が、親鸞聖人が引用されたときには「大悲弘くあまねく化する(大悲弘普化)」となっています。
この表現は『往生礼讃』の全文を掲載した『集諸経礼懺儀』(智昇法師)に依っています。
善導大師は「阿弥陀仏の大いなる慈悲を話し手(念仏者)が伝えていく」の意とされるのに対し、親鸞聖人は「阿弥陀仏の大いなる慈悲は、阿弥陀仏はたらきによって弘まっていく」の意とされたのではないかと……考えられています。
つまり親鸞聖人は善導大師の文意を受けながら、行者にとっての「教化の難」を克服し、可能ならしめるものが「大悲」のはたらきにほかならないとの見方をされ、阿弥陀仏の大悲による教化を讃嘆されたものといえるのです。
仏法を聴聞して仏さまの慈悲を我が身に味わう人は、その自らの味わいを人に伝えることができます。
学問の場合でも、その人が本当に学問を理解したかどうかは、学んだことを人に教えることができるかどうかによります。
私たちが対象を理解して受け入れるということは、その対象を自分と他人が共有できるということです。他人と共有できるところに感動の共有も生まれます。
阿弥陀仏より賜りたる信心のよろこびを他の人に伝えることこそが、信心のよろこびに生きる人のすがたです。そのよろこびを他の人に伝えることによって「自分も相手もともに仏法に育てられた」という共有の感動が生まれます。
信心をいただくということも、結局は自分も相手もともに阿弥陀仏のはたらきに教化されたということです。
自信教人信とは「信心をいただいた者が、他人の苦悩を放っておけないから教人信に動く」というように、自信と教人信を分けるものではありません。自信が必然的に教人信へと展開するので、その根源は阿弥陀仏の他力回向の信心に具わっています。
『口伝鈔』には
如来の教法は総じて流通物(るずうもの)なればなり(註釈版 p.881)
とあります。法は自然の道理、つまり仏のはからいによって弘まっていくものであり、決して人間のはからいで弘まり伝わるものではありません。
「教人信」が話し手(念仏者)側において可能であれば、それはひとえに阿弥陀仏の大悲のはたらきが人々に伝わり、念仏せしめていくからです。
話し手の立場からすれば、念仏を勧めることは信心のよろこびの顕現として、仏恩報謝の営みのほかはないのです。
教化の主体は私たち人間の側ではなく、あくまで仏が教化をしてくださるという意がここに明らかになります。
私たちはこの「阿弥陀仏の大悲による教化」を根底に据えながら、念仏を称えつつ御恩を報じる道を歩ませていただくのです。
ある人は「人は法によって育てられ、法は人によって伝えられる」と話していました。法は法によって育てられた人を通して伝わっていくものです。
ところで「信心がなければ伝道はできませんか」「仏法をよろこぶ心がなければ、人に仏法は伝えられませんか」という疑問もあります。
確かに蓮如上人は「まず他力の信を決定せよ」とお勧めです。しかし「信心がないから伝道ができない」と考えるのではなく、むしろ「私が仏法を聴聞するためにこそ、いよいよ仏法を伝えていかなければいけない」と受け止めるべきではないでしょうか。
それは聞法しつつ伝道し、伝道しつつ聞法をさせていただく道といえるでしょう。