4月8日は仏教の開祖であるお釈迦さまのお誕生日です。
全国の仏教寺院では「花まつり」という法要行事を営みます。
お釈迦さまがこの世界に生まれたとき「7歩すすんで言葉を発した」と仏典にあります。このときに発した言葉が「誕生偈」です。
もっとも有名な誕生偈は玄奘三蔵の『大唐西域記』などに伝わる「天上天下唯我独尊」ではないでしょうか。
他にも『長阿含経』の「天上天下唯我為尊」や『雑阿含経』の「天上及於人我為無常尊」、『異出菩薩本起経』の「天上天下尊無過我者」など、さまざまな「誕生偈」が存在します。
表現は種々ありますが、いずれも「世界で私だけが尊い存在である」「世界で私が一番尊い存在である」という意味になります。
また、パーリ語やサンスクリット語で伝わった仏典にも「誕生偈」は含まれます。
現存する資料の中でもっとも古いと伝わる「誕生偈」は、パーリ仏典の『大本経』や『未曾有経』に登場します。そこには「世界で 私が一番(aggo)である。世界で 私が最上である。世界で 私が最高である」と記されています。
この「誕生偈」に触れると「お釈迦さまは自惚れている」「自分だけが尊いなんてナルシストだ」「独善的」と受け取る人がいるかもしれません。しかし、そうではないです。
さまざまな「誕生偈」を並べてみると、「唯我独尊」の「唯」「独」の使用目的が明らかになります。「唯」「独」は「尊い存在=我」に限定、強調する言葉です。
ところが、この表現は「私だけが尊く、周りは劣っている」と他者を見下すことを目的とはしていません。
あくまでも「さまざまな存在のなかで、私が一番尊い」と、自らの素晴らしさを強調することに狙いがあったようです。
なぜなら、さまざまな「誕生偈」のなかで「無上」や「無過」など、「自分より尊い存在などいない」という表現があるからです。
比較をして「ナンバー1」を誇っているのではなく、他と比べられることのない独自性を「オンリー1」と打ち出しています。
最古の「誕生偈」と考えられる『未曾有経』の「agga(aggo)」というパーリ語には「(たくさんのなかで)一番の○○」という意味があります。
例えば、お釈迦さまの弟子たちの「智慧第一(舎利弗)」「神通第一(目連)」の呼び名にも「agga」の語が用いられます。
この「第一」は、決して「第二」「第三」がいるようなランキング形式の意味はなく、多くの弟子の中で「智慧が素晴らしい」「神通力が優れている」といった個性や特徴を示しています。
例えば「神通第一」の目連が神通力について舎利弗に相談している逸話があります。もし目連の神通力が他に比にならないほど「第一」と優れているのであれば、相談する必要はないはずです。
そもそも、神通力は智慧を獲得すれば自ずと具わります。ということは「智慧第一」である舎利弗もまた神通力が巧みということです。
しかし舎利弗を「神通第一」と言わないのは、やはり舎利弗の智慧が際だって特徴があったからでしょう。
このことから「天上天下唯我独尊」は「世界で私が一番尊い存在である」という意味になります。
なぜ「一番尊い」と言ったのでしょう。
仏伝の原初形態を含むパーリ仏典の『律蔵』では、お釈迦さまが梵天勧請後、初転法輪を行う前に「ウパカ」という名の異教徒に「私に師はなく、私に等しい者はいない。神々を含めた世界において、私に比肩する者はいない。私こそ実にこの世において尊敬されるべき人、この上ない師、唯独りの完全なる覚者である」と告げています。
「苦悩に沈む世界の人々を導き得るのは神々や他の思想家たちではなく、私ただ独りである」という初転法輪に向けての強い決意が込められています。
このお釈迦さまの言葉が、後に成立した仏伝の「誕生偈」として取り込まれたという見方があります。
この異教徒との関係から「誕生偈」を眺めると「唯」「独」は、他を排除するというより、「もっとも尊い」「一番尊い」という最上級の意味を「強調」するための言葉と考えて良いでしょう。
また「天上天下唯我独尊」に続く言葉についても、さまざまに種類があります。
例えば『大唐西域記』には
天上天下唯我独尊 今茲而往生分已尽
とあります。意味としては「世界で私が一番尊い存在である。なぜなら、この生が迷いの世界での最後の生であり、再び迷界に流転しないからである」となります。
つまり「私はさとりを開く存在であるからから、世界で私が一番尊い」といった内容です。
対して『修行本起経』卷上・菩薩降身品第二には
天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之
とあります。「迷いの世界である三界(欲界・色界・無色界)を生きる衆生は苦しみのなかにあり、その衆生に真実の安らぎを与えるために誕生したから、世界で私が一番尊い」ということです。
前者は自利、後者は利他を強調していますが、いずれにしても「仏に成る存在であるから一番尊い」ということを示しているのがわかります。
「誕生偈」には「生まれながらに尊い存在である」とするものの他に、
「私は一切を知る者、一切を見る者、最上人となる」(『マハーヴァストゥ・アヴァダーナ』)
「私は老死を滅する最上の医師、最上の衆生となる」(『ラリタ・ヴィスタラ』)
「われまさに世において無上尊となるべし」(『仏説無量寿経』)
など、「これから尊い存在になる」という未来形で述べられたものがあります。
「生まれながらに尊い存在である」のか「これから尊い存在になる」のか、仏教徒が仏さまや菩薩に持つイメージはさまざまであったのかもしれません。
この記事を書いていて、仏教では「仏に成る」ということが何よりも尊いことであることが改めてわかりました。
よく浄土真宗の法話では「阿弥陀如来は私のことを尊い存在であるとご覧くださる」といった言い回しがありますが、それは阿弥陀如来にとっては「あなたは本願力によって必ず仏と成る存在(必定の菩薩)であるから尊い存在である」ということでしょう。
もちろん「仏に成る」と言われても、凡夫である私たちにはまったくその意味や尊さ、凄さがわかりません。
しかし本来は「仏」という尊い存在になり得ることのなかった私が「あなたは本願力によって仏と成る尊いいのちである」と告げていただける人生を歩む……いのちの意味と目的が転じらていくのが浄土真宗です。
〈参考『季刊せいてん』〉