阿弥陀如来という仏さまは、遠い世界やお寺やお仏壇の中で私たちを待っている仏さまではありません。この世界へ、「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と言葉のすがたとなって飛び込んできてくださった仏さまです。
さらに、一人ひとりのいのちに宿ってくださるだけでなく、「その身に入り満ちて、“なんまんだぶ”の声のすがたとなって現れ出る」という仏さまです。
ここで大切なことは、仏さまは私に対して、
「あなたはここが足りないから、もっと頑張れ」
「これができたら救ってあげますよ」
「その欠点を直したらお浄土へ連れ帰りますよ」
と、責めることや要求をされていないことです。ただただ「あなたを救う仏が“なんまんだぶ”と届いてますよ。いつでも一緒ですよ」とはたらいてくださる。
ここは、大切なことであると同時に聞き入れるのがとても難しいことです。
なぜなら人間世界がそうではないからです。
「あの人はこういう欠点があるから、直したらいいのにね」
「あれはもっとこうあるべきだ」
「君は今のすがたを改めてこうしなさい」
振り返ってみると私たちの世界にある言葉は、いつでも誰かを責めたり、要求や注文をするようなものばかり。
自分が言っているということは、自分も言われています。
時には自分で自分を「なんで自分はこうなんだ」「こんな自分なんか認められない」と裁いて見捨てることもあります。
そんな世界で「仏さまが一方的に見捨てないんだ」という話を聞いても、受け入れることは難しいです。
でもどうして仏さまだけは、「あなたを救うよ」「あなたを決して見捨てませんよ」とおっしゃるのでしょうか。
それは私と仏さまの関係が、親子のような関係にあるからだと先人方が教えてくださっています。
愛のある親であれば、苦しみや辛さを抱えていくような子どもを見て、裁くことはありません。
今回は私も「仏さま=親」「私たち=子ども」に例えたお話をしたいと思います。
藤子・F・不二雄さんの描かれた『ドラえもん』という漫画・アニメ作品をご存知でしょうか。
未来からやってきたドラえもんと呼ばれる猫型ロボットと、小学五年生の野比のび太という少年の日常を描いたSF漫画であります。
先輩僧侶から教えてもらったとあるエピソードをご紹介します。
ある日の夜のこと。のび太のお父さんである「野比のび助」が外から顔を真っ赤にして、頭にはネクタイを巻き、千鳥足でグデングデンに酔っぱらって帰ってきます。
玄関に倒れ込むとそのまま大声で気分よく歌い出しました。
お母さんだけでなく、寝ていたドラえもんとのび太も何事かと玄関に集まります。
「ちょっと、パパったら!もう本当に困るわね!しっかりしてよ!子どもたちも見てるわよ!」
「それがどうした!僕はこの家のあるじだぞ!」
「……もう知りませんっ!」
愛想を尽かして奥へ引っ込んでしまいます。
その場に残ったのび太も黙ってはいません。
「ねぇ、こんなとこで寝ちゃダメだよ!ねぇってば!」
「うるさいぞ!こどものくせに親に向かってまったく……」
そういってのび助はその場で寝てしまい、お手上げ状態。
「どうしようかな・・・そうだ!子どものくせにと言うなら、親を出そう!パパのママ、つまりおばあちゃんにパパを叱ってもらおう!」
のび太の提案は、おばあちゃんが元気だった時代に父親を連れて行き、そこで叱ってもらおうというものでした。
実の父親をドラえもんが用意したクレーン車で吊し上げると、自分の部屋まで運びます。
三人は、タイムマシンという時代を自由に行ったり来たりできる乗り物で、のび助の母親が生きていた時代へ向かいます。
到着すると、のび太たちは父親を叱ってもらうために、おばあちゃんを呼びに行きます。
「おばあちゃん、パパね、凄く酔っぱらちゃって仕方がないんだよ。おばあちゃんから、ガツンと叱ってやってよ!」
のび太たちは、協力してくれることになったおばあちゃんをのび助のところへ連れて行きます。
泥酔して寝ているのび助におばあちゃんが声を掛けます。
「のび助、のび助、起きなさい」
「うーん、誰だ?ぼくはこの家のあるじだぞ!一番偉いんだぞ!
ん?……って、母さん!なんで?!これは夢だよな??」
亡くなった母親が目の前に座っていたのですから、驚くのも無理はありません。
さて、ここからおばあちゃんはどうやってパパを叱るんだろうか──のび太とドラえもんが部屋の外から、二人の様子をこっそりと覗きます。
おばあちゃんの口が開きます。
「元気そうだね。毎日、ちゃんとやれてるのかい?」
その時に出てきたおばあちゃんの母親としての言葉は、決してのび助を責めるような言葉ではありませんでした。
「もちろんだよ!これでも一家の主だからね」
「そうかい、そうかい。
でも、のび助……何でも一人で抱え込んじゃダメだよ」
ノビスケは自分の身をただただ案じてくれる母親の言葉を聞くと、目にいっぱいの涙を浮かべます。
「母さん、ぼく……ほんとうは辛いんだ。会社で人間関係がうまくいってなくて……」
「おやまぁ、それは辛かったねぇ」
子どものようにワンワンと母親の腕の中で泣きだすのび助。
「大人ってかわいそうだね。自分より大きなものがいないから、誰にも寄りかかって甘えることができないんだ。
きっとパパは、嫌なことや辛いことや悲しいことがあっても一人で抱えてきたんだ」
最後は、母親の膝のうえで安心して眠るのび助の姿が。
私たちも、のび助さんと同じではないでしょうか。
私たちは誰もが、人には決して言うことができない辛さや悲しさを抱えて生きています。
どうして周りに話すことができないのか。
口に出したらそれだけで、自分が辛くて耐えられないからです。
何よりもこの世界は、「改めなさい」と相手を責める言葉や、「もっとこうしなさい」と要求する言葉で溢れています。
「自分の胸の内を誰かに話しても、本当のところで自分の悲しみを分かってもらうことはない」。そのことを私たちどこかで知っているのです。
だから、本当に辛いことや悲しいことは胸の奥底へとしまい込んでしまう。
しかし、そんな悲しみ悩みを抱える人のすがたを見たときに、本当に相手を大切に思う人、例えば愛のある親だったらどうするか。
「甘えるな」「もっとこうしろ」と、頭ごなしに裁くことはしないのではないでしょうか。
まず、その悲しみを背負っていく、その悩みに寄り添っていく。
このこころを仏教では「慈悲(じひ)」といいます。
そういう存在と出遇っていくと、安心して生きていけるのでしょう。
阿弥陀如来という仏さまは、慈悲の仏さまです。
悲しみや辛さを抱えて生きていく私を責めたり、何かを要求してくるような仏さまではありません。
「その悲しくも愚かな生き方をするあなたの人生そのものを背負っていく仏がいますよ」
「その仏があなたのいのちのうえに“なんまんだぶ”と届いておりますよ」
と聞かせていただくのが慈悲の宗教である浄土真宗です。