いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
「うるわしく匂う花々も、やがては散っていきます。この世界において常に変わらないものなど、どこにもありません。形あるものに執われて迷い続けた道を、今日からは越えていきましょう。はかない夢はもう見ることはなく、無明の酔いから目覚めるのです」といった内容が綴られているのは、日本語の50音(48文字)を一度ずつ使ってつくられた「いろは歌」。古くから仮名文字を書くためのお手本として用いられてきました。
空海の作といわれることもあるようですが、誰が作ったかは今も分かっていません。
新義真言宗の祖である覚鑁(かくばん:1095-1144)の『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)によると、「雪山偈(せっせんげ)」と呼ばれる詩句を和訳したのが「いろは歌」であると説明があります。〈参考『弘法大師 空海』より〉
雪山偈は、『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』というお経に出てくる物語で登場する詩です。
むかしむかし──ヒマラヤ山(雪山)で菩薩行を修める行者(雪山童子)がいました。心は清らかで、ただ一心に真実を追い求め続けて修行に励んでいました。
そんな行者・雪山童子のすがたを見て感動した帝釈天は、彼の心が本物であるのか試験をすることにします。
人の肉を食らう鬼(羅刹:らせつ)のすがたに化けた帝釈天は、ヒマラヤの山に現れると詩を歌い始めます。
諸行無常 是生滅法(しょぎょうむじょう ぜしょうめっぽう)
[作られたものはすべてうつり変わる。生じては滅していくのが世の真理である]
行者はこの歌を聞くと心の底から歓喜の心が生まれてきました。乾いたものが水を得るような、とらわれていたものから放たれたような気持ちになったのは、これこそが真実の教えであると受け取ったためです。
この素晴らしい詩を歌ったのは誰であろうかと、声が聞こえた方に進みます。すると、そこで待っていたのは恐ろしいすがたをした食人鬼。
「もしかして、いま歌っていたのはあなたですか。よかったら続きを聞かせてください」
「いかにも。さきほど歌っていたのは私だ。これは過去の仏さま方が説いておられた詩で、真実が説かれた言葉である。
続きも詠いたいところだが、私はいま飢えている。何か食べなくては最後まで歌うことはできない」
「そんなこと言わずに歌ってください。さっきの詩には、私が求めていた尊い真理が語られている。けれども、まだすべてを聞くことができていません。どうか残りを歌ってください」
「だから私は空腹に耐えられないと言っているだろう。もし人の熱い血を飲み、豊かな肉を食べることができるのであれば、続きを説けるのだが」
「ならば私の身体を食べてください。真実を求めるものとして、あの詩をすべて聞けるのであればこの肉体など惜しくはありません」
行者は続きを聞かせてもらえるのであれば、そのあとで自分の身を鬼に与えると約束します。
頼みを聞き受けた鬼は、後半を歌い始めます。
諸行無常 是生滅法
[作られたものはすべてうつり変わる。生じては滅していくのが世の真理である]
生滅滅已 寂滅為楽(しょうめつめつい じゃくめついらく)
[生じては滅していくことに執着することがない。その静まった境地にこそ本当の安らぎがあるのだ]
全てを聴き終えて満足した雪山童子は、さっそく木や石にこの詩を刻みます。
そして約束通り、自らの身体を鬼に与えるために高い樹の上へ登り、その身を投げました。
身体が地に打ち付けられる瞬間、鬼は帝釈天へと姿を戻して、行者の身体を受け止めて地に降り立ちます。
帝釈天は多くの神々と共に行者を礼拝し、行者を試したことを謝り、神々の世界へと去って行きました……めでたしめでたし。〈参考『国訳一切経 印度撰述部 涅槃部 1 改訂』「大般涅槃経 巻の14 聖行品第7の4」〉
このお話はお釈迦さまの前世の話(ジャータカ/本生譚|ほんじょうたん)として知られており、法隆寺の玉虫厨子に描かれる「施身聞偈図」としても有名です。
鬼が歌った詩を和訳したものが「いろは歌」であるといわれています。
「有為の奥山」の有為は仏教用語で、さまざまな原因や条件によって作り出されたすべてのものを指します。
私たちの生存している世界は、すべてが生じ・変化し・滅していく法則のなかにあることを諸行無常や有為転変(ういてんぺん)といいます。
しかし、私たちには煩悩があるため、その法則や真理をあるがままに受け入れることができません。
この世界に生まれると、必ず年を重ねて、必ず身体のどこかがいたみ、必ず病に冒され、必ずいのちを尽きていく──これが私という人間の間違いない真実のすがたです。
にも関わらず、私たちはこの真実とは反対のことを願って生きています。
せっかく人間として生まれてきたのだから、なるべくいつまでも若くありたい、なるべくいつまでも健康でいたい、なるべくいつまでも長生きがしたい──若くて健康で長生きすることが幸せであり、老いて病んで死ぬことは不幸であると考えるのです。
この考えから抜け出さないかぎり、私たちの人生は不幸に向かって進むことしかありません。もっと言えば、不幸で終わることにいま既に決まっています。なぜなら、生まれた以上は誰もが老病死を避けられないからです。
「生まれたいのちが必ず終えていく」という教えは、とても後ろ向きな暗いもののように感じるかも知れません。
ですが、そもそもそれこそが真実であって、本来は後ろ向きも前向きも、明るいも暗いもないのです。
あるがままの真実をそのまま受け入れることができたときに、恵まれたいのち・限られた人生に感謝をすることができるのでしょう。
そして迫りくる死に対しても恐れることなく、今ここを大切に生きることができると教えてくれる仏教の基本のお話でした。