「百年の孤独」という名前の有名な麦焼酎があります。
「いい名前だな~」と思って調べてみたら、ガブリエル・ガルシア=マルケスという人が書いた同名の小説『百年の孤独』に由来するそうです。
ノーベル文学賞を受賞した有名な作品らしいですが、ご縁がなくて読んだことはありません。とある一族の孤独な運命について書かれているようです。
この「百年の孤独」という言葉だけ聞くと、「きっと百年の間、ひとりぼっちだったんだろう」と安易な解釈を私はしてしまいます。
似たような響きを持つ『二十億光年の孤独』という作品があります。現在も85歳ながら現役で精力的に活動する詩人の谷川俊太郎による処女詩集です。
谷川俊太郎が10代の頃に書いた詩を集めた詩集で、印象的な言葉が並びます。
(前略)
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
小学生の時に通っていた学習塾で受けた国語のテストに出てきて、意味が分からなすぎて強く記憶に残る詩でした。
特に前述した「百年の孤独」という時間の話と違って「二十億光年の孤独」という距離がどういう意味を持つのか分からないままに時は過ぎます。
「1年間の孤独」なら想像しやすいけれど、「1メートルの孤独」ではよく分かりません。
ちなみに二十億光年という距離は、この作品ができた当時に観測できた最も遠い星雲までの距離のことだそうです。
孤独を考えるときに、大きく分けてふたつの考え方があるように思います。
ひとつには単純に物理的にひとりぼっちであるということ。ふたつには精神的に心がひとりぼっちであるということです。
前者はそのままですが、後者については哲学者の三木清が有名な言葉を遺しています。
孤独は山になく、街にある。ひとりの人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。
いろいろと解釈があるようですが、基本的には「たくさんの人の“間”にいながら、誰も自分と関わろうとしてくれない」ということこそが本当の孤独ということでしょう。
思い返してみれば、部屋にひとりでいる時よりも、学校の騒がしい教室の中にひとりでいる時の方が孤独感は強まります。
他者がそばにいるにも関わらず、誰も自分に関わろうとしない、誰も自分を分かってくれない、誰も自分を愛してくれないといった精神的な孤独に対して人間は非常に弱いです。そのことを教えてくれる社会心理学の実験があります。
コンピュータの画面上で、被験者を含む3人がボールをパスするというゲームを行う。
最初は全員に公平にボールが回されているが、そのうち被験者以外の2人だけがボールをパスし合うようになる。
するとのけ者にされた人の脳の中、痛みの中枢である背側前帯状皮質と前部島皮質が活発な活動を示した。
しかし、タネ明かしをすると被験者以外の2人はコンピューターによって動かされているだけである。
そのことを説明して、同じことをしても、やはり仲間外れにされると、脳は同じ反応を起こすという。〈参考『性格・社会心理学』〉
この実験によって、孤独に対して人間の脳がどれほど敏感なのかが分かります。
人間は社会的な生き物です。そのため、繋がりや仲間に受け入れられることを強く望みます。
その期待が破られたとき、強い社会的な痛みと傷を負います。のけ者になることに人間は極めて敏感であって、それは肉体的苦痛に劣らない苦痛をもたらすのです。
以前、とある会議で自分の企画をプレゼンテーションしたときのこと。当時、自分が在籍していた部署はかなり保守的で新しいことを取り組むことに億劫な人ばかりでした。
そこに風穴を開けるべく、練り込んだ革新的な企画を持ち込んだのですが、やはり理解は得られませんでした。
「君はこの場にいるけど、なんだか遠い世界にいるような人だね」
会議後に先輩から言われたひと言に、なんとも悲しい気持ちになりました。自分にとって理解できない存在は、遙か遠くにいることと同じなのでしょう。
どれほど手を尽くして自分の思いを伝えようとしても、自分以外は他人であって別の人間です。家族や恋人、幼馴染みであろうと本当の自分のことをすべて理解して受け入れてくれる人などいません。
まさしく「二十億光年の孤独」とも呼ぶべき、宇宙をたったひとりで漂うような孤独を私たちは抱えています。私と他者の心の間には天文学的といってもいい程の距離があるのです。
それでも「分かって欲しい」「受け入れて欲しい」という思いが消えないため、傷つきながら孤独は深まっていくのでしょう。
もちろん、中には「自分のことは誰にも分かってもらえなくていい」「孤独が大好きだ」という人もいます。
ただ、それは自分のことを受け入れてくれる自分がいるから、孤独とはいえません。どんなに人に蔑まれても、自分がそのことを気にしなければ、以外と平気な顔をしていられるものです。
本当の孤独とは、自分自身でも自分自身のことを受け入れられないことです。
人生を歩むなかで、人間関係や将来について、また年を重ねることや病気になること、死んでいくことをはじめとした、どうやっても受け入れられない出来事が必ず起こります。
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』というお経にはそのことが次のように説かれています。
人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。
【私訳】人間は世間の情にとらわれながら生活をするなかで、結局は独りで生まれて独りで死に、独りで来て独りで去るものです。苦しい世界や楽しい世界も、自分独りの行いによって開かれます。すべては自分の身のうえに広がるもので、誰も代わってくれる人はいません。
潜在的に孤独を抱え、独りで生きていくしかないのが人間であるとお釈迦さまはお示しくださいました。
そして、孤独的な存在であると同時に、独りでは生きていくことができない社会的な存在でもあります。この世界が苦しみの世界だといわれる所以のひとつでしょう。
ただ、お釈迦さまは同時にたったひとりだけ、あなたのことを知っていてくれて、すべてを受け止めてくださる“阿弥陀如来”という仏さまのはたらきがあることも教えてくださっています。
「阿弥陀」という名前には、“いつでも”・“どこでも”届いてはたらいてくださるという意味があることから、阿弥陀如来を「あなたをひとりぼっちにはしない仏さま」と味わうお坊さんもいます。
なぜ、阿弥陀如来がそうした仏さまになったのか……それは人間がどこまでいってもひとりぼっちであるからです。
人間が本質として持っている孤独の深い闇は、仏さまの光明によって照らされ、破られていくのです。