無生の生

私たちは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の迷いの世界で生き死にを繰り返し続けている……と仏教では説きます。これを輪廻(りんね)といいます。


私たちの今の生き方によって、次のいのちの在り方が決定されます。
言い換えれば、今の私は前の生涯の結果によって導かれた後生であるともいえます。


「なんで自分がこんな目に遭うのだろうか」
「どうして自分はこんなに不幸なのか」
「人生はどうしてこんなに苦しいのだろうか」


生きていると、私たちの知恵ではどうやっても説明ができないことが多々あります。
人間がこうした苦悩に苛まれるのは、煩悩を抱えて迷いの世界を生きているからに他なりません。
何故、そうなったのかといえば、それまでの前世・前前世・前前前世……もそうであったからでしょう。


しかし、阿弥陀如来に摂め取られてお念仏の人生を歩む者は、いのちを終えると煩悩の穢れのない清らかなさとりの世界である浄土へ生まれ、もう2度と苦しみの世界に生まれることはありません。


浄土へ生まれるということは、人間が考えるような実体的な生ではなく、生まれたり死んだり生じたり滅したりを超えた「生」です。このことを中国の曇鸞大師という高僧は「無生の生(むしょうのしょう)」と示されました。


ですが、私たちの認識を超えた生といわれてもよく分からないので、お経の中では「浄土に生まれる」「往生する」といった言葉遣いが用いられます。

さて、「生まれ変わらない」という「生」が救いとなるとはどういうことでしょうか。


『100万回生きたねこ』という有名な絵本があります。
あらすじは次の通り。(wikipediaから転載)

主人公の猫は、ある時は一国の王の猫となり、ある時は船乗りの猫となり、その他、サーカスの手品つかいの猫、どろぼうの猫、ひとりぼっちのお婆さんの猫、小さな女の子の猫…と100万回生まれかわっては、様々な飼い主のもとで死んでゆく。
その時、100万人の飼い主は猫の死にひどく悲しんでいたが、当の猫はまったく悲しまなかった。
主人公の猫は、飼い主のことが大嫌いだったのだ。

ある時、主人公の猫は誰の猫でもない野良猫となっていた。
「自分だけの事が好き」な主人公の猫は、100万回生きたことを自慢し、周囲のメス猫たちも何とか友達や恋人になろうと、プレゼントを持ってきたりして周囲に寄ってくる。

しかし、唯一自分に関心を示さなかった一匹の白猫の興味をなんとか引こうとするうちに、いつのまにか主人公の猫は、白猫と一緒にいたいと思うようになる。そして、白猫にプロポーズをするのであった。白猫は主人公の猫の思いを受け入れた。

そして時がたつと、白猫はたくさん子供を産み、年老いてゆき、やがて猫の隣で静かに動かなくなった。
そこで猫は初めて悲しんだ。
朝になっても昼になっても夕方になっても夜になっても、猫は100万回も泣き続け、ある日のお昼に猫は泣き止んだ。
そして猫も、とうとう白猫の隣で動かなくなり、決して生き返ることはなかった。


さらに転載です。

歌人の枡野浩一は、
「100万回生きて100万回死んだ主人公のオスネコは、最後の最後には2度と生き返らなくなる。
彼は生まれて初めて本当の意味で死んでしまうわけなんだけど、たいていの読者は物語の終わりを知ったとき『あー、よかった。めでたし、めでたし』という気分になっているはずで、そこがすごいのだ。
主人公が死んでしまうのに『あー、よかった』と心から思える不思議。
その『不思議』の部分は、ぜひ絵本の実物を読んで味わってください」
とこの作品を高く評価している。

いろいろな解釈がある作品のようですが、主人公の猫が「もう生まれ変わることがない」という「生」を得たところがハッピーエンドになるという不思議な結末は、「生まれ変わらない」という「生」が救いとなる「無生の生」に通じるものがあるように思います。


私たちもまた迷いの生を繰り返してきたのかも知れません。
しかし、「出遇えて良かった」という存在を目の前にしたときにこれまでの永く続いてきた迷いが報われていくのでしょう。
私たちに「出遇えて良かった」を恵んでくださる仏さまが阿弥陀如来であるといただくのが浄土真宗というご法義です。

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2017年10月01日