続・蜘蛛の糸

前回、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」について触れました。

この物語を読んだとある僧侶は「芥川龍之介は仏教に詳しいが、本当に仏教で救われたのだろうか」と疑問を持ったといいます。


「カンダタの助けた蜘蛛によってカンダタが救われる」というのは仏教でいうところの自業自得です。
また、それまで切れなかった糸が切れて、カンダタが地獄に再び墜ちて行ったのは、仏教における罪をふたつ犯したからと考えられます。
ひとつ目は「自分だけが良かったらいい。他はどうなっても構わない」と自己の欲望だけを求めた罪です。
ふたつ目は、お釈迦さまから恵まれた切れるはずのない法の糸であるにも関わらず、「他の者の重みで糸が切れてしまう」と疑った「謗法(ほうぼう)」の罪です。


しかし、「“自分だけがよかったらいい”という心を起こしてしまった者は地獄に墜ちる」と言われたら、凡夫に救われる道はあるのでしょうか。
「他人を蹴落としてでも自分だけは良い思いをしたい」という心はなかなか捨てることができません。


だからこそ「芥川龍之介は仏教に詳しいが、本当に仏教で救われたのだろうか」とその僧侶は考えたのでしょう。


そこで紹介をしたいのが、浄土真宗本願寺派の勧学(最高学位)で京都女子大名誉教授の宮地廓慧(みやじかくえ)和上の考えた蜘蛛の糸の続編です。
この物語は「くもの糸[完結編]浄土に救われたカンダタ」としてDVDにもなっています。ホームページ
かなり脚色がありますが、紹介します。


蜘蛛の糸が切れて再び地獄の血の池へ真っ逆さまに堕ちていったカンダタ。その様子を見届けるとお釈迦さまは悲しい表情を浮かべてその場を去りながら考えました。

「やはり凡夫に対して、煩悩を捨てて自分の力で浄土まで上がって来いというのは無理があったか……よし、そうであればこれしかない!」


再び蓮池に戻ってきたお釈迦さまは蜘蛛に地獄まで糸を垂らすようにお願いします。


それと同時にお釈迦さまは身体を金色に輝かせて、阿弥陀如来へとすがたを変えました。
阿弥陀さまとなったお釈迦さまは、蜘蛛の糸を伝って地獄の池までスルスルと降りて行かれたのです。


一方その頃、地獄に舞い戻ったカンダタはというと……、

「(どうして蜘蛛の糸が切れたんだ。もしかしたら自分だけが助かろうとした愚かな考えを持ったからだろうか。しかし、あのときはそれしか選択肢がなかったのだ。その結果がこれだったら、俺はどうすれば良かったんだ)」


そんなことを考えていると再び目の前に蜘蛛の糸が垂れ下がってきただけでなく、その糸を伝って光り輝く仏さまが現れたではないですか。


驚くカンダタに対して阿弥陀さまは、

「カンダタよ、思い知ったか。お前は自分だけが助かろうと愚かな心を起こしただけではなく、仏法を疑う罪を犯したからこうして地獄に墜ちたのだ。反省をするがいい」

とはおっしゃいませんでした。そうではなく、


「カンダタよ、申し訳ない。自力で上がって来いと糸を下ろした私が間違っていた。私がお前を背負って浄土まで連れていくから、どうぞ背に乗りなさい」

仏さまから背中を差し出され、カンダタは驚きます。
先ほど仏法を疑い、仏さまの教えに傷をつけた私に対して、仏さまご自身が地獄にいる私のところまでお越しくださった。
それだけでなく、私に対して罪を告げるのではなく「お前を背負わせておくれ。どうか救われてくれ。お前が救われなければ困るのだ」と私を背負おうとしているのです。


荒んだ心で「こんな巧い話があるものか」と最初は仏さまの言葉をなかなか聞くことができなかったカンダタですが、仏さまの尊い姿によって心を動かされて、背中に背負われることになりました。


カンダタは仏さまに背負われて糸をのぼっていきます。
最初の時と同じようにしばらくして下を振り返ると、またもや地獄の他の住人たちがあとからゾロゾロと続いてきます。

「あいつらまた……」

と言いかけたところでカンダタはハッと気づきます。
この時、既に回心していたこともあって、先ほどのようには声を荒げません。

「おーい、お前たちも頑張れ!一緒に救われていこう!」


そうこうしている内にお浄土まで辿り着きました。
カンダタは蓮池の下を覗き込むと、あとから糸をのぼってくる者たちに手を差しのべます。

「もうすぐだぞ!引っ張り上げるから、俺の手につかまれ!」


しかし、地獄にはたくさんの亡者がいます。下からやってくるのは10人や20人ではありません。
カンダタは次から次へと浄土へと引っ張り上げますが、1日、2日、3日……と過ぎていく時間はやがて10年、100年、1000年。
無限にも思われる時間のなか、カンダタはひたすら地獄の人びとが浄土に辿り着くための手助けを続けます。


やがて、最後のひとりが浄土に生まれ、地獄からは人がいなくなりました。
ホッとして力が抜けてカンダタは後ろにひっくり返ってしまいます。すると、そこに今まで背中越しに立っていたはずの仏さまがのすがたがありません。

仏さまはどこに行ったのかな。立ち上がってキョロキョロと辺りを見渡すと、そこには驚きの光景が広がっていました。


「ここに、カンダタという名前の菩薩さまがいらっしゃいます」

今までカンダタに引っ張り上げられてきた地獄の人びとが、全員そろってカンダタに対して両手を合わせているのです。

極悪非道で地獄にしか居場所がないと思われていたカンダタでありましたが、仏さまのはたらきによって浄土に生まれることができただけでなく、他の者たちから菩薩と呼ばれて敬われるようになったのでした。おわり。


阿弥陀如来という仏さまは、私たちに「生き方を変えて自力でのぼってこい」「罪を反省して綺麗な心を持った人間になれよ」とおっしゃるのではなく、「私があなたを救える南無阿弥陀仏という名となって、今あなたの心に至り届きますよ」とおっしゃってくださいます。


浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、『涅槃経』というお経の中にある「われいまだ死せずしてすでに天身(てんしん)を得たり」という言葉を紹介しています。
仏さまの「南無阿弥陀仏」のはたらきに出遇うものは、お浄土へ参って仏さまとなるいのち(天身)を今いただいているということです。
誰かの悪口を言いながら、人の失敗を笑い、自分のことしか考えられなかった私でありますが、いずれいのちを終えてお浄土へ参っていくと、仏さまとなって全ての人びとを救うことが出来るようになります。
時間が掛かるかも知れませんが、一切衆生の救済という阿弥陀さまのお手伝いをさせていただくことができるのです。


浄土真宗の教えは人間に対して「あなたに罪はありません」と嘘をつくことがなければ、「頑張ればなんとかなるよ」と気休めを言うこともありません。決して綺麗事で誤魔化すものではないのです。

罪深き者であるかも知れませんが、そうであっても仏さまとなっていく道があるんだということをお示しくださったのが親鸞聖人です。
親鸞聖人が「転悪成善(てんあくじょうぜん)」とも示されるように、悪業煩悩にまみれた凡心しか持ち合わせていない凡夫であっても、お浄土へ参って仏さまとなる道をいただくのが浄土真宗です。

法話一覧

2017年10月29日