駒沢先生

私が中央仏教学院というお坊さんの専門学校に通っていたとき、宗派の内外を問わず、さまざまな先生の講演を聞く機会がありました。


そのなかでも、岡山県で小児科医のお医者さんをされている駒沢勝先生のお話が印象に残っています。当時の学院長の手記を参考に紹介します。


駒沢先生が国立岡山病院に勤務していたころのお話です。
以前、紹介した宮崎幸枝先生もそうですが、大きな病院では、町のお医者さんの手には負えない症状の子どもたちが次から次へと紹介されて入院してくるといいます。


しっかりと治療をして、患者さんが元気になって退院するのを見送るときは、「自分の力で治してやったんだ」と誇らしい気持ちであったそうです。


反対に、懸命な治療をしたにも関わらず、病気で亡くなってしまう……そんな子どもを目の前にすると、「自分は今まで医者として何をしてきたのか。そんな強い敗北感や罪悪感に襲われていました」と語ります。


その先生のもとに、ひとりの女子中学生が入院してきました。母親がいないため、父親に育てられたといいます。
しかし、父親は仕事があるため、夜の7~8時過ぎに病室にやって来て1時間ばかり子どもと話すと、次の日の仕事に備えて帰宅。女の子の入院生活は、ほとんど独りぼっちの状態でした。

日が経つにしたがって、病状はどんどん悪化。

「もしかしたら、私はこのまま死んでいくのかなぁ……」

そんな気持ちが日に日に強まります。にも関わらず、そばには自分の不安を和らげてくれる相手はいません。

そこで、自分の不安をかみ殺すようにして、診察の際には先生に何度も尋ねます。

「先生、私の病気は治るの?大丈夫だよね、きっと治るよね?」

駒沢先生は答えます。


「大丈夫だよ。昨日よりも数値が良くなっているからね。不安に思うことはないよ。明日はもっと元気になるからね。頑張れ、頑張れ」

口では精一杯に励ましていたけれども、心の中では「(以前よりもかなり衰弱してきている……)」と感じつつ、それを表面には決して出すことなく診察を続けました。


しかし、その女の子もしばらくして病状が悪化して亡くなります。すると、周りのお医者さんたちが、

「あの子も頑張って病気と闘っていたんだけどな。とうとうダメになってしまったのか」

そんな言い方をしているのが耳に入りました。その言葉を聞いて、


「彼女にはふたつの苦しみがあった。病気による肉体的な苦しみと、たった独りで幼くして死んでいくのかも知れないという精神的な苦しみ。
そのふたつの苦しみを背負いながら、一生懸命に病気と闘ってきた。それなのに、彼女が死んでいくことがダメになったと言ってしまっては、あまりにかわいそうだ。彼女の生命はそんなものでしかなかったというのか」

と感じます。


それからというもの、

「病気で亡くなっていく子どもを『ダメになった』という言い方しかできないのが今の医学の現状ではないか。すると、医学は真実やホンモノとは言えないだろう」

と医学に対する疑問が生まれました。さらに、「この世界に真実やホンモノはどこにあるのだろうか」とさまざまな学びを重ねる日々が続きます。

そして辿り着いたのが、真実は宗教にあるのではないかという結論でした。


ただ、宗教といっても非常に多岐にわたります。その中でも駒沢先生が選び取ったのが浄土真宗の教えでありました。

なぜ、浄土真宗を選ばれたのでしょうか。そこには、先生の両親の後ろ姿がありました。


駒沢先生は広島県三次市の浄土真宗の門徒家庭で育ったそうです。両親は浄土真宗の教えをよろこんでいて、先生の脳裏にはいつも仏壇の前で合掌をしている両親のすがたが焼きついています。

医学の限界や矛盾といった大きな課題にぶつかったときに、「親父やおふくろが拝んでいたあの後ろ姿にこそ何かがあるに違いない。きっとそこに真実があるはずだ。そうと決まれば親鸞聖人の教えを勉強してみよう」という心が起こってきたのです。


さっそく、東京で開かれた学会の帰りに、大きな本屋で浄土真宗や親鸞聖人にまつわる本を購入しました。病院の研究室に持ち帰ると、周りには医学書を読んでいるように見せながら、勉強を重ねていきます。


しかし、読んでも読んでも理解することができません。
それでも独学で学びを重ねて6年が経ったころに、「そうか、親鸞聖人の教えとはこうであったのか。真実とはこのことだったのか」と頷くことができたといいます。
その真実に触れた先生は、講演会の最後に次のように語っていました。


「癌や不治の病を宣告されて死ぬしか道がない人に対して、1分1秒でも延命の治療を続けるのが現在の医学です。しかし、これはとても残酷ではないでしょうか。
死ぬしか道がない人に対して『そんなことでどうするんですか。死は敗北だ。家族が悲しむからもっと頑張れ』と患者の尻を叩くことと、延命治療は同じことのように思います。そこには死んでいく人にとってまったくといっていいほど救いが残されていない。

しかし、親鸞聖人が支えとされていた阿弥陀如来は違います。いのちを終えていこうとする人に『もっと生きろ』とは決して言われません。
阿弥陀さまの眼は死にゆく人をどうご覧になるのか。『生きることも、死ぬことも優劣はない。生きることも素晴らしく、死ぬことも素晴らしいことである。だから、死ぬことは決して惨めなことではないんだ。だから、安心して死んでこいよ。そのあなたをお浄土へ連れて行く仏が一緒だからな。決してお前は独りじゃないぞ』。
そんな風に私たちのいのちを温かく受け止めてくださるのが阿弥陀さまという真実の仏さまのものの見方ではないでしょうか」

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2017年12月03日