心業の画師

身体を切り刻まれ、すり潰され、業火に焼かれる苦しみが永遠に続く……源信和尚の『往生要集(おうじょうようしゅう)』冒頭には、地獄という苦しみに満ちた世界が鮮明に描写されています。


そのなかで、地獄に墜ちた罪人と獄卒(ごくそつ|地獄の鬼)が次のようなやり取りをする場面があります。


「どうしてこんなに酷いことをするんですか。あなたには思いやりというものがないんですか」


「煩悩のままに生きて悪事を行った報いなんだから、全部お前の責任だろう。なんで俺を恨むんだ」


地獄はどこかに用意されている世界ではなく、私自身が作る世界である──こうした『往生要集』に書かれた地獄の記述は、源信和尚が勝手に考えたものではなく、さまざまな論・経典に拠っています。


その中心とされる『正法念処経』というお経には「心業の画師の画文」と説かれます。つまり、地獄とは「私たちの心という名の画家によって描かれた絵」のようなものなのです。


私たちの心が白色の絵の具で描けば天人の世界を、黄色の絵の具で描けば畜生の世界を、黒色の絵の具で描けば地獄の世界を作るという教説もあります。


同じ意味の言葉で有名なのが『華厳経(けごんきょう)』「夜摩天宮菩薩説偈品(やまてんぐうぼさつせつげほん)」の「唯心偈」に説かれている

「心如工画師(しんにょくえし|心は工みなる絵師のごとし)」

という言葉です。

「心は巧みな画家のように、様々な世界を描き出す。この世の中で心の働きによって作り出せないものは何ひとつない」とあります。


大谷派の金子大栄先生は、「地獄はない、つくるべからず」「仏教の思想からいえば、地獄はつくらなければありません」「地獄はつくりつつあるもの」と述べられています。
「ある」「ない」ではなくて、「今まさに自ら創造している世界」であるのが地獄です。


同じく大谷派の学僧であった南條神興師は『往生要集乙酉記』で、

「そもそも六道輪廻の世界は、すべて個々人の業にもとづく感見の世界──つまり私たちそれぞれの心が見てゆく世界を説いたものである。
例えば、2000年堕ち続けるという阿鼻地獄までの距離にしても、人の心がその罪業に応じて感受するものに他ならない。
批判者はまず、我々の見ているこの世界だけを絶対のものとして疑わないその態度こそ、反省すべきではないか」

と述べられています。


仏教では、私たちのいるこの世界(六道)を、平板なひとつの世界と捉えるのではなく、それぞれの心が感受する世界の複合的な集合体と考えます。
私たちは自分の見ている世界しか知り得ませんが、だからといってそれ以外の世界をすべて否定することは傲慢なことでしょう。

もちろん、私たちに地獄のあるなしを言う能力はありませんが、地獄や六道の世界は、混沌とした輪廻の世界を明らかに知り尽くした方──目覚めた人であるブッダの説かれた教えであることを重く受け止めたいと思います。
これは裏を返せば、地獄や六道、あるいは人の前世などを具体的に語り得る人は、ブッダの他にはないという言い方もできるでしょう。〈参考『季刊せいてん no.119』本願寺出版社〉


日本のおどき話である「舌切り雀」をテーマにして、宗教評論家のひろさちや先生がこんな話をしていたと先輩から聞きました。

舌切り雀のあらすじ

むかしむかし、あるところに心優しいおじいさんと、欲張りなおばあさんがいました。

ある日、おじいさんは怪我をしていた雀を家へ連れ帰って手当をしてあげました。


怪我が治ったので山に帰そうとしましたが、雀はおじいさんにたいそう懐いています。
おじいさんも雀に情が移り、名前をつけて可愛がることになりました。
しかし、雀を愛でるおじいさんの様子がおばあさんは面白くありません。


おじいさんが出掛けていったある日のこと、お婆さんが井戸端で障子の張り替えに使うために作った続飯(そくい|飯粒を練りつぶして作った、粘りけの強いのり)を雀が食べてしまいした。


怒ったおばあさんは、 「悪さをしたのはこの舌か」 と雀の舌をハサミで切り、家から追い出します。


家に戻ってそのことを聞いたおじいさんは雀を心配して山に探しに行きました。


すると、藪の奥に雀たちのお宿を発見。中からあの雀が出てきておじいさんを招き入れてくれました。
雀はおばあさんの糊を勝手に食べてしまったことを詫び、怪我をした自分を心配して探しに来てくれたおじいさんの優しさに感謝を伝えます。


さらに、仲間の雀たちとご馳走を用意して、歌や踊りで時が経つのを忘れるほどおじいさんをおもてなししました。


帰りにお土産として大小2つのつづらが用意されました。
おじいさんは、「自分は年寄りなので小さい方のつづらで十分だよ」と伝え、小さなつづらを背負って帰路につきます。


家に帰って中身を見てみると……なんと、金や銀、珊瑚、宝珠の玉や小判が詰まっているではないですか。


この光景を見た欲張りなおばあさんは、「大きなつづらにはもっとたくさん宝物が入っているに違いない」と雀のお宿に押しかけて、無理やりに大きい方のつづらを奪って持ち帰ります。


雀たちから「家に着くまでは開けてはならない」と言われたにも関わらず、待ちきれなくなって帰り道で開けてみると……なんと、中から魑魅魍魎や虫、蛇が溢れるように現れ、お婆さんは腰を抜かして気絶してしまいました。

後になって一部始終を聞いたおじいさんは、「無慈悲な行いをしたり、欲張るものではない」とおばあさん諭しました。おしまい。(参考「wikipedia」より)

この話を受けてひろさちや先生は次のような問題提起をします。


「では、もしもおじいさんが大きい方のつづらを持って帰っていたらどうなったでしょうか?中から化け物が出てきましたか?」


「また、反対におばあさんが小さい方のつづらを選んだとしたら、そこに宝物は入っていたと思いますか?」


先生の答えは次の通りです。

「おばあさんがどれだけ横暴であろうと、優しい雀が仕返しに化け物を仕込むわけがありません。
ということは、おじいさんの時も、おばあさんの時も、大きいつづらと小さいつづらの両方に宝物が入っていたのです」


すると、おばあさんのつづらから化け物が出てきたのはどうしてでしょうか。


欲張りなおばあさんは、豪華な宝物を幾らもらったとしても「もっとたくさん欲しい」「もっと良いものが欲しい」という心が消えません。
目の前の宝物を見ても「これだけか」「物足りないな」と感じるその心によって、宝物を化け物という価値のないものに変えてしまったのです。


例えば、自分の子どもがテストでいつも30点しか取れなかったらどうでしょうか。
これは遺伝や教育の結果だから、本当はその子の責任でないはずです。


しかしある時、その子どもが70点を取って帰ってきました。親としては喜ばしいことです。

「良くがんばったね!今日はあなたの好きなカレーライスを作ってあげる!」


ところが、料理をしながらあることが気になります。

「……そういえば、そのテストの平均点は何点だったの?」

「今回はみんな良くできて、平均点は80点だったよ」

子どもの答えを聞いて親はカレーライス作るの止めました。


いつもは30点しか取れなかった子どもが70点も取って帰ってきた。これは立派な宝物です。
その宝物に対して「平均点以下だから価値がない」と切り捨てる。宝物を価値のない化け物にしてしまったのは誰でしょうか。
子どもが一生懸命に取ってきた70点という宝物を、正しく評価できずに切り捨てるのは、他でもない自分自身の心によるものです。


もしも子どもが100点を取ったとしても、

「他に100点を取った子どもは何人いたの?」

「6人くらいいたかなぁ」

「あなたの他に5人も……じゃあその100点に価値はないわね」


「その程度でどうするんだ」
「今のままじゃダメですよ」
「もっと頑張りなさい」

欲深い煩悩の心は、目の前の対象を価値のない化け物に変えてしまう……非常に面白い「舌切り雀」の受け止め方ではないでしょうか。


「悪いことをした人間は地獄に墜ちる」と聞いて、「そんな迷信に騙されるか。死んだらそれで終わりだ」と考える人は多いのか知れません。
しかし、「地獄」という世界が失われた結果、「死後の裁きはないから、生きている内は何をしても関係ない」と思う人が増えると、私たちの世界に地獄がすがたを現します。

「こんなことをしたら地獄に墜ちるかも……」と考えられる人は心にブレーキがかかるはずです。
そのブレーキが失われると、人間は欲望のままに生きていきます。すると、いずれ道を踏み外し、人を傷つけ、傷つけられ、孤独になって、生きているのが辛くなる……これもまた私の煩悩の心が描いていく地獄でしょう。


だからといって、人のため世にためにと清らかな人生を歩めるかといえばそれも難しい。
その私をご覧になって「悲しいですね。辛いですね。せっかくいのちをいただきながら、罪を重ねていくしかできないのですか。それならば、私があなたを救う仏となりますよ」と告げてくださるのが、阿弥陀如来という仏さまです。

法話一覧

2017年12月10日