源信展


奈良国立博物館で開催されている「源信 地獄・極楽への扉」という特別展に行ってきました。


恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)とは、平安時代中期に活躍していた僧侶です。浄土真宗の宗祖である親鸞聖人も大きく影響を受けました。
浄土教史に一大金字塔を打ち立てた高僧として知られています。今回の特別展は一千年忌を記念して開催されました。


個人的な話ですが、去年と今年の安居会読で源信和尚について範囲が当たっていたこともあって、ここ1年くらい折に触れて調べていたので絶対に行きたかった展示のひとつでした。


源信和尚は今からちょうど1000年前の1017(寛仁元)年6月10日に76歳で往生しました。
一周忌の前後に源信の弟子である覚超(かくちょう)が『楞厳院二十五三昧過去帳(りょうごんいんにじゅうござんまいかこちょう)』に記したものをはじめとして、亡くなってすぐに伝記が書かれているため、生涯については信憑性の高い参考資料が多くあります。
購入した図録やポストカードからその足跡を簡単に辿りたいと思います。


源信和尚は現在の奈良県葛城市の当麻村付近に生まれたと考えられています。父親は占部正親、母親は清原氏。夫婦には一男四女があり、父親は仏道には縁がなかったものの誠実な人柄で、母親は後に出家をして極楽浄土へ往生するための修行を行ったほどの篤信者だったそうです。


この母親が近くにあった高雄寺の観音菩薩に願って授かった子どもが源信和尚でした。母親の教えを受けて仏道修行に励んでいた姉妹と同じように、僧侶の道へと進みます。
後に高雄寺で夢のお告げを受け、出家をすることになりました。


日本における天台宗の総本山といえる比叡山延暦寺のなか、山内北側に位置する横川(よかわ)に入った源信和尚。ここで慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)の弟子となります。


広学堅儀(こうがくりゅうぎ|仏教教義などに関する問答によって合否が決められる法会)で優秀な成績を修め、天皇や貴族の前で行われる宮中の論議に参加。
その様子が書かれている『親信卿記(ちかのぶきょうき)』によれば、源信和尚は今でいう会読の名手であったようです。


ちなみに、この宮廷の論議で活躍したことによって貰った褒美を母親へ送ったところ、「気持ちは嬉しいけど、自分が息子に望むのは、名誉など世間の煩わしさから離れた遁世修行の道である」と返事があった有名なエピソードがあります。


源信和尚の学びは幅広く、他にも因明学(いんみょうがく)に精通していたといいます。因明学とは、議論の技術・規則を考察する学問です。
同門であった厳久(げんきゅう)という僧侶の頼みを受けて『因明論疏四相違略註釈(いんみょうろんしょしそういりゃくちゅうしゃく)』を著しています。
実力も高く、仲間たちからも信頼をされている学僧であったことがうかがえます。師匠の良源に続き、「次の天台座主(てんだいざす|延暦寺の住職)は源信に違いない」と誰もが疑わなかったことでしょう。


しかし、源信和尚は出世街道からは外れることになります。その理由は、良源への反発ではないかと考えられています。
当時の比叡山の中心は天皇や貴族との政治的な結びつきを深めるグループが主流でした。良源はその先導者であったといってもいいでしょう。
一方で同じ時代には増賀(ぞうが)、性空(しょうくう)のように権力と距離を置くグループや、空也(くうや)のように庶民の間を歩き渡り浄土の教えを伝える僧侶の存在がありました。


源信和尚自身は、比叡山を離れませんでしたが、政治からは距離をとって隠遁生活に入ります。前述した母親の言葉も関係していたのかも知れません。


隠遁して数年後、浄土教の教理を組織した大著『往生要集(おうじょうようしゅう)』を完成させました。985(寛和元)年4月、源信和尚が44歳のときのことです。

冒頭には次のようにあります。

それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、たれか帰せざるものあらん。ただし顕密の教法、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しとなさず。予がごとき頑魯(がんろ)のもの、あにあへてせんや。このゆゑに、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。これを披きこれを修するに、覚りやすく行じやすし。

【現代語訳】極楽浄土に生まれることを説く教えと実践とは、濁った現代において目と足となるものです。それは僧侶・俗人・貴族・庶民、すべての人のよりどころとなります。しかし、仏教の教えは幅広く、実践体系も複雑です。賢者と呼ばれるような人であれば難なくこなせるのでしょうが、私のような愚か者は、とても習得することはできなさそうです。そこで、「念仏」の法門ひとつに限定して、その要となるお経や論文の言葉を集めてみました。この書を見ながらお念仏を申せば、理解しやすく、実践も簡単です。

極楽浄土への往生を勧める幾多の法門から、「念仏」ひとつを選んでその教理を組織したが、それは私のような愚か者を導くためです──源信和尚のいう「私のような愚か者」とは、自分自身だけではなく、ともに往生成仏をめざす全ての念仏者のことです。『往生要集』に示される念仏往生の教えは、決して選ばれた貴族だけのものではないと考えていたのでしょう。


もうひとつ、『往生要集』には、人間が生前の行いによって輪廻(りんね)していく六つの世界(六道|ろくどう)について、膨大な経典を引用しながら具体的に説明しているのも特筆すべきところです。
地獄の恐怖や、極楽の素晴らしさ、そして人間世界の醜悪さを鮮明に伝えています。


平安時代には貴族にもよく読まれ、その後も多くの人びとに長く読み継がれていきます。この源信和尚の描いた死後の世界のイメージは、後の浄土信仰の造形に大きな影響を与えました。


以前より死後世界の可視化は行われていましたが、『往生要集』以後はその記述を中心とした美術が爆発的に増えたといわれています。

〈参考『源信 -地獄・極楽への扉-』〉
〈photo by narahaku〉

長くなりそうなので、続きはまたいつか書きたいと思います。

合掌

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2017年08月16日