宗教とは何か……『学校では教えてくれない宗教の授業』の中でひろさちや氏は次のように書かれています。
あるおじいちゃんがバスの時刻表を指しながら、カンカンになって怒っています。
「この時刻表によると、もうとっくに来ているはずなんだ。バスは15分も遅れている。このバスの路線は、1度も時刻表通りに来たことがないんだ。こんな時刻表だったら、いるもんか!」
そう言って、時刻表を叩いて怒っていました。
すると、連れ合いのおばあちゃんが言いました。
「おじいさん。その時刻表がないと、バスがどれだけ遅れているか分かりませんよ」
宗教というものは、バスの時刻表のようなものだと思います。現実の社会は、決して時刻表通りには運行しません。
「その通りにならないのなら、時刻表などいらない」と言う方もおられるでしょう。しかし、宗教という時刻表があるから、世の中が狂っていることが分かるのです。
「それなら時刻表に合わせるように努力すべきなんだ。仏教の教えに合わせるように努力するのが正しい」と言う方もおいでになります。
しかし、私はヘソ曲がりなもので、どうもそうは思えないんですね。なぜなら、バスが15分遅れているとします。この交通渋滞のなかで、いくら努力しても時間通りに走れっこないわけです。もしも15分遅れているバスが時刻表通りに運行しようとしたら、何人の人をひき殺さなければならないでしょうか。だから時刻表通りにはならないのです。
「時刻通りにはならないけれども、少しでも近づける努力をすべきだ」と言う方もおいでになるでしょうでも、やはり私は「ほんとかなぁ」と思うわけです。
仮にそのバスが10分の遅れになったとします。5分、遅れを取り戻しました。
そうすると、次のバスも15分遅れているわけですから、その間隔は20分空いてしまいます。
努力することによって次のバスの間が余計に空いてしまって、かえって不便になることもあります。だから、遅れを正常通りに近づける努力が必要なのかどうか、これも私は疑問なのです。
現実の社会は、理想通りにはなりませんね。だから、少しでも理想に近づけたほうがいいのかどうか──、そこが私には疑問なのです。
ただ、現実の社会は、神さま・仏さまの目から見たらおかしいんだという認識はもっていたいわけです。
なぜかと言いますと、世の中はそもそも「デタラメ」だからです。デタラメとは「筋が通らない、勝手気まま、いい加減」という意味で使われますが、もともとの意味は「出たら目」です。サイコロを振って、その出た目にまかせることです。
世の中というものは、「努力した人間が浮かばれる。正直者が馬鹿を見ない」という理想通りにいきません。努力しない人間が浮かばれて、正直な者が馬鹿を見ることもあります。まさに「デタラメ」です。
しかし、私はデタラメでいいと思っています。逆に正直者が馬鹿を見ないような社会は怖いと思うのです。
もしも、正直者が馬鹿を見ないという社会ができたら、馬鹿を見た人間は馬鹿を見た上に「あいつは不正直者だ」とレッテルを貼られるだけのことです。それは怖い社会だと思います。
「真面目ないい子は問題を起こさない」と、今の世の中では信じられています。
そうすると登校拒否した子どもなどは「あの子は真面目ではないし、悪い子だ」と言われます。
会社でリストラに遭った人は「きっと真面目に仕事をしていなかったからだ。能力がないからだ」と見られてしまいます。
そうした見方は、私たちの物差しで良い悪いを判断しているだけのことです。世の中は実にデタラメなのです。
例えば、20本入りのビール瓶が入った箱を1cm上から落としたところで1本も割れません。
しかし、1m上から落とせば、その箱のなかの2本や3本はきっと割れるでしょう。5m上から落とせば、さらに何本かが割れます。
どれくらいの瓶が割れるかというのは、確率論で分かります。ですが、どのビール瓶が割れるのか、それは分かりません。
また、東京タワーの上から1万枚のビラを撒けばヒラヒラと飛んでいきます。どの紙がどこに行くかというのは分かりません。
交通事故の原因は自動車が氾濫していることにあります。交通事故が起きる確率は車の台数によって統計的に分かってくることです。しかし、誰が交通事故に遭うのかは分かりません。
それらは、まさにデタラメなのです。そして神さま・仏さまの物差しは人間から見ればデタラメなのです。私たちの論理や物差しではデタラメに見えるのです。
さらに言えば、我々にとってデタラメに見えるものが正にそれ故に神さま・仏さまの心だということができます。
あるとき、100人の人間が太平洋の真ん中で溺れていました。神さま・仏さまに救ってもらわないと助からないという状況です。
そんなとき、仏さまが救助に駆けつけられたとします。そして、1度に全員を救えなくてひとりずつしか救えない状況だとしたら……仏さまは誰から先に救うのでしょうか。
金持ちから先に救うのでしょうか。お賽銭をたくさんくれた人から先に救うのでしょうか。そんなことありませんね。
では、善人から先に救うのでしょうか。勤務評定をして、良いことをした順番から救ったりしていたら、みんな溺れてしまいますね。
仏さまを信じている人から救ってもらえるのでしょうか。そんなことをすれば、仏さまは商売人になってしまいます。
そのときの正解は「デタラメ」なんです。仏さまはデタラメに救うのです。
仏さまが駆け付けたときには、そばの人から救っていかれるのです。若い者も年寄りも、男も女も、金持ちも貧乏人も、信仰心があろうとなかろうと、善いことをしていようと悪いことをしていようと、まったく無関係に救われるのです。
そもそも、仏さまがデタラメじゃないと仏さまじゃないのです。「デタラメなのが神さま・仏さま」ということが分かっていないと、インチキ宗教にしてやられることになります。
そして、神さま・仏さまはすべての人を救われるのであって、100人は100人ともに救ってくださるのです。そのことを信ずることが大切です。
私たちは
「善いことをしたら善い結果が出る」
「一生懸命に努力すれば良い結果が出る」
と考えています。それが競争原理を支えている意識でもあります。仏教にも「善因善果・悪因悪果」あるいは「善因楽果・悪因苦果」が説かれています。「善いこと」をすれば「善い結果」が出るのは当たり前だと考えられています。
しかし、ここで考えてみてください。「善いこと」や「善い結果」とは、いったい何でしょうか。
例えば、満員電車の中でお年寄りや身体障害者に席を譲るのは「善いこと」ですね。あなたが満員電車の中で目の前に立っている青年は無視して、少し離れたところにいる老婦人に席を譲ったとします。
そのとき、自分は「善いこと」をしたと思うでしょう。ところが、その老婦人は次の駅で降りるかも知れません。
実は目の前の青年はヘトヘトに疲れていたのかも知れません。心臓病で心臓にペース・メーカーを入れていることだってありえます。
そうすると、老婦人には「善いこと」をしたのでしょうが、青年には「悪いこと」をしたことになります。ひとりの人間に対して「善いこと」が、他人には「悪いこと」になる場合もあるのです。
あるいは、あなたが宝くじに当たったとしましょう。それは「良いこと」ですね。しかし、そのことによって、かえって不幸になるかも知れませんよ。
もしも1億円が当たってごらんなさい。夫が浮気をはじめたり、親類縁者が次々にやってきて「金を貸してくれ」と頼まれるかも知れません。断っているうちに人間関係も気まずくなることでしょう。そうなったら、不幸なことじゃないですか。
だから、宝くじが当たることは、必ずしも「良いこと」ではありませんね。
大学に合格することが「良いこと」かどうかも分かりません。希望通りの大学に受かっても同級生に意地の悪い者がいてイジめられるかも知れない。落ちて1年遅れたために素晴らしい恋人が見つかるかも知れない。
結局のところ、私たちには「善いこと」や「良い結果」だと思っていることが、本当に「いい」かどうかは分からないのです。
それらはみんな「自分の物差しではかっている」ことなのですね。自分の物差しとは、自分だけの勝手な解釈です。
これが良いとか悪いとか、損か得かを自分の勝手な物差しではかっていることなのです。
仏教では「自分勝手な物差しではかるな」と教えます。
ものごとの本質は、良いも悪いもないのです。良いとか悪いというのは、世間の物差しです。その世間の物差しにしがみついているときには、自分の本来のありようが発揮できないのです。
仏さまの考えは、私たちには分かりません。仏さまの物差しは、私たちの物差しとは違うからです。仏さまの物差しは、目盛りのない物差しだと思ってください。目盛りがないから、私たちははかることができません。
私たちの持っている物差しは大したものではないし、絶対ではない。そのあやふやさに気付くことが大切です。
そして、自分の物差し、人間の物差しというものはアテにならないということが、心底から分かってくること。
すなわち「分からないことが、分からないことだと分かること」、それが「分かる」ということなのです。ここが大切なところです。これさえ分かれば悟りが開けたも同然です。〈引用『学校では教えてくれない宗教の授業』〉