釈迦の仏教1

4月8日はお釈迦さまの誕生日です。


出来が悪かったり壊れたりすることで使い物にならなくなることを「お釈迦になる」といいます。


もともとは鋳物(いもの)職人の隠語で、阿弥陀仏を鋳造(いぞう)するはずが、誤って釈迦を鋳造したことから出た言葉です。
また、金属の溶接で「火が強かった」ので失敗したのを、

「ひがつよかった」
→「しがつよかった」
→「四月八日(しがつようか)った」

とシャレで言ったことからという説もあります。〈『明鏡 ことわざ成句使い方辞典』〉


お釈迦さまは、今から約2500年前、歴史上に実在したインド人です。場所を考えると実際にはネパール国籍とするのが正しいかも知れませんが、当時はネパールという国はなかったため、「インド人」とします。

国王の息子、つまり王子さまとして生まれました。長男で一人っ子ですから、国王となることは間違いありません。
しかし、それを捨てて、単身で森の中へ入って修行をする道を選びました。


「世の中の本当のすがたを知りたい」という思いが強かったからでしょう。
王子に生まれて、国王になり、幸せに暮らして、最後に死ぬ……そんな人生も幸せかもしれません。
ところが、「お金」や「地位」のような社会に造られた「虚構の幸せ」ではなく、「間違いのない幸せ」「本当の幸せ」をお釈迦さまは追い求めました。


「間違いのない幸せ」の裏には「間違いのない苦しみ」が存在します。
幸せな人は幸せを求める必要がありません。今が苦しいからこそ、幸せを望む──では、その避けることができない苦しみの本質はなんでしょうか。


その正体こそが「生(しょう)」「老」「病」「死」です。


「生き物」とは、「死に物」と言い換えることができます。
「生まれる」「生きる」は「死ぬ」ことと表裏一体です。
平穏無事に生きて、最後にポックリと死ぬのであれば良いのですが、私たちの認識では下り坂の結果として死が待っています。
年齢を重ね、病気になり、最後に死ぬ。この私たちの人生の中で、どうすれば本当の幸せを掴めるのかをお釈迦さまは考えました。


「生」は、お互いに回避することはできません。私たちはすでに生まれて、生きているからです。
では、「老」「病」「死」はどうでしょうか。回避方法はふたつ考えられます。


ひとつは、「老」「病」「死」そのものを消し去る方法です。
年齢を重ねることが苦しみの原因であれば、歳を取らなければいい。
同じように病気にならなければいい。
死ななければいい。

荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、実際に「いつまでも若々しくいられる」「病気が治る」「長生きができる」を売りにしている宗教もあります。


しかし、お釈迦さまが採用したのはもうひとつの道です。

お釈迦さまは極めて合理的な考え方を持っていました。
「いつまでも若くて健康で長生き」、いくら望んでもそれは叶わぬ夢であることは明確です。
叶わない夢を追い求めれば、現実に直面したときの苦しみは倍増します。
「死にたくないから、死なないでおこう」と考える人間は、死ぬときに恐ろしい苦しみを味わいます。


お釈迦さまが選んだのは、「老」「病」「死」を受け容れる道です。
「老」「病」「死」の現象を心の中で苦しみを転換するシステムそのものの変更です。
死ぬことが苦しみにならない生き方です。〈参考「現代を仏教的に生きるということの意味」佐々木閑〉

お釈迦さまの誕生日に、仏教の原点を少し振り返ってみました。

法話一覧

2018年04月08日