煩悩を断ち切ったさとりの境地をめざすのが仏教です。
一方で、親鸞聖人は『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』で次のように述べられています。
「凡夫(ぼんぶ)」といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
【現代語訳】「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終わろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもないと、水火二河の譬えに示されている通りである。
この言葉は「凡夫」についての説明ですが、浄土真宗で「人間とは何か」を語るときには欠かすことができない一文です。
人間が生きるということは、煩悩の中を生きるということです。
私たちは、煩悩に満ちみちた存在であって、この命終えるまで、欲もあれば、怒ることもあり、他の人を妬むこころを持ち続け、そのせいで苦しんで生きていきます。
煩悩は際限なく湧き起こります。
日ごろは穏やかな気持ちで生活を送っているつもりでも、条件や状況によって腹が立ちます。
何かを得ることができても、ついまた新しい何かを求めてしまいます。
他人と比較をしてしまうのはよくないとわかっていても、つい無意識のうちに比較してしまいます。
聖人がお示しくださった凡夫とは、自己中心的な心を捨てることができないばかりか、そのことに気付くこともなく苦悩を抱えて生きている私たちのすがたなのです。【続】