煩悩3

煩悩」によく似た「欲」という言葉がありますが、仏教では「欲」と「煩悩」を明確に区別します。


私たちの複雑な心を明快に分析すると、「欲」は希望(けもう)する心であり、何かを達成するために勤め励む効果をもたらす「心のはたらき」に分類されます。


考えてみれば、人の行動はすべて希望が伴います。それが悪い方向にはたらく場合もあれば、善い方向にはたらく場合もあります。


例えば、電車のなかで年配の方に席を譲ったとします。
相手に親切をしたいと考えるのは「欲」には違いありません。
しかし、この「欲」は人を思いやる「無瞋(むしん)」(慈)「不害(ふがい)」(悲)などの善き心と結びついて起きています。


ところが、相手が「年寄り扱いするな!」と怒り出したらどうでしょうか。
「せっかく私が席を譲ってやったのに」と傲慢(慢の心)になるだけでなく、相手に怒り(瞋の心)が湧き起こり、喧嘩(害の心)が発生するかもしれません。
周りが止めに入ると、「私は悪くない」と自分の非を隠して(覆の心)身を守るでしょう。
善き心としてはたらいた欲であっても、むさぼりの煩悩(貪欲)に侵されれば自身の手柄を求める名誉欲となって悪くはたらいてしまいます。


一方で、ボランティアのように無償の奉仕活動をされる方々の背景には「被災された方々に何かしてあげたい」という「意欲」があります。
学問や研究への「意欲」は科学や文化の発展をもたらしました。
仏さまの教えを聞いて深く信順した人の「意欲」は仏の道を歩む尊い姿となって顕れます。
さとりをひらいて煩悩を持たない仏さまであっても、「すべての人をすくいたい」と「意欲」をもって活動されるのです。


「欲」そのものだけで語るのであれば、仏教では「悪い心である」とは言い切れません。
煩悩とひとつになってはたらいたときに、人を傷つけ自分も傷つけていく「罪」を次々に作ってしまうのです。


煩悩は争いを起こして平穏を壊してしまう悪しき心です。
世の中の発展は、決して「私だけが幸せになりたい」という煩悩によってなされてきたわけではありません。
「欲」は善き心と一緒になったとき、はじめてわが身の成長も世の発展もあるのです。【

(参考文献 『季刊せいてん 111号』本願寺出版社)

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2018年07月08日