親鸞聖人の主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の「行文類」には、
他力(たりき)というは如来の本願力(ほんがんりき)なり
とあります。
聖人はこの他力について、
なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに
と譬えています。
磁石が鉄を吸い付けるのと同じように、阿弥陀仏は本願の因である念仏者を吸い寄せる不思議なはたらきがあるのです。
磁石の持つ磁力のような阿弥陀仏の作用・はたらきを「本願力」「他力」「仏力(ぶつりき)」といいます。
自力を用いることのない他力の救いを見事に表わされた比喩表現です。
恐らく、聖人は『華厳経(けごんきょう)』を参考にされたのでしょう。
「本願の因」の「因」には、大きく分けて「結果をもたらす直接の原因」を意味する「因種(いんしゅ)」と、「どうして結果に至ったのか、その理由」を意味する「因由(いんゆ)」「因故(いんこ)」のふたつが考えられます。
まず、「因」を「因種」と見た場合、「本願の因」とは本願に誓われている衆生の往生成仏(果)に対する因──つまり、種となる「信心」と「念仏」を示します。
阿弥陀仏が「すべての世界のすべてのいのちを、本願を信じ、念仏する者に育て上げ、光明の中に摂め取り、浄土へ迎え取る」と、願いの通りに作用する本願力を磁石に譬えたのです。
「行文類」には、「行」と「信」の利益について
十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。
【現代語訳】あらゆる世界のどの衆生も、この行信をいただくなら、仏は摂め取ってお捨てにならない。だからこの仏を阿弥陀仏と申し上げるのである。これを他力という。
とあります。
「行信に帰命する」とは、「本願を信じ、念仏を申せ」という阿弥陀仏の仰せに信順することです。
その人を摂め取って護り続けるのが「阿弥陀仏」の名前のいわれであり、それこそが他力であると述べられています。
つまり、阿弥陀仏とは衆生を念仏する者に仕上げ、光明の中に摂め取って捨てない、本願力の救済活動を著しています。
このことを「他力」といい、「磁石のごとし」と聖人は譬えられました。
次に「因」を「因由」「因故」と見た場合、「本願の因」とは「本願を発(おこ)された理由」です。
聖人は『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』で
如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
【現代語訳】阿弥陀仏が願いをおこされたおこころを尋ねてみると、苦しみ悩むあらゆるものを見捨てることができず、何よりも回向を第一として、大いなる慈悲の心を成就されたのである。
と讃詠(さんえい)されています。
阿弥陀仏に衆生救済の大悲心を呼び起こし、本願を発させたのは「苦悩の有情」に他なりません。
つまり、苦しみ悩んでいる私たちこそが「本願の因」です。
以上のように「本願の因」には二通りの見方があります。しかし、両方の意味があると見るべきでしょう。
苦悩の衆生を救おうとして成就された阿弥陀仏の本願力は、必然的に苦悩の衆生にはたらきかけられます。
すると、そのはたらきを受けた衆生は阿弥陀仏の方へと吸い寄せられます。
もう少し具体的にいえば、阿弥陀仏に背いている苦悩を抱えた私を、本願を信じて念仏する者へと育て上げ、浄土へ迎えとっていくはたらきです。
この救済活動の全体を「磁石が鉄を吸い上げるはたらき」として譬えられたのです。【続】
(参考・引用『親鸞聖人の教え・問答集』梯實圓)