損か得か 善か悪か 敵か味方か

損か得か 善か悪か 敵か味方か 幸か不幸か

決めているのは 全て自分自身

仕事の場でも、私生活においても、あまり深く考えずに「この人と付き合うのが自分に“役に立つか”“役に立たないか”」などと、単純に二元論で割り切って物事の価値を判断する風潮が強まっているように思えます。
物事はいろいろな条件があってひとつの結果になっており、なるべく広く見渡して理解することが大事であるにもかかわらず、「損か得か」「善か悪か」「敵か味方か」と単純にふたつに分けて、こうだと決めつけてしまう。これは非常に危ない考えです。

確かに二元論的思考法は物事を整理するのに便利です。しかし、世の中の問題、特に人間に関する問題について考える場合、二元論で判断するのは大事な点を見落としてしまう危険があります。

仏教の基本的な教えに「縁起(えんぎ)」というものがあります。私たちがよく使う「縁起が良い」「縁起が悪い」の縁起も仏教から来たものですが、本来は「因縁生起(いんねんしょうき)」を略した言葉で、「縁って起こる」という意味です。

因縁の「因」とは直接原因、「縁」とは間接原因のことで、すべての物事の結果は間接・直接の原因が寄り集まって成り立っており、永続する固定的な実体はないとするのが「縁(よ)って起こる」、すなわち縁起の考えです。

たとえば春に種を植えて、夏に朝顔の花が咲いたとします。花が咲いたという結果(果)を得た直接の原因(因)は種ですが、種があるだけでは朝顔は咲きません。土・水・太陽・気温などさまざまな条件(間接原因=縁)がそろってはじめて、花が咲くのです。

視点を変えて種を結果と見た場合、花が「因」になり、さまざまな条件が「縁」となります。このように、すべてのものが「因」となり、「縁」となりながら、固定することなくお互いにつながり合っている在り方が縁起なのです。

この縁起の考え方に立てば、「善だ」「悪だ」と二分したところで、条件や環境が変われば、善が悪になり、悪が善になったりします。自分を「善」とするから、自分に敵対する相手は「悪」だとなるわけで、相手が「自分は善だ」と主張すれば、自分は悪になってしまうことになります。

善か悪か、早くどちらかに決めて安心したいのでしょうは、少し我慢し、物事を広く深く考える余裕を持ちたいものです。むしろ、あまりにも単純な二元論は疑った方が良いでしょう。

〈参考『人生は価値ある一瞬』〉

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2017年11月01日