幸せになりたいという欲望は

幸せになりたいという欲望は

幸せになることの邪魔をする

戦前から戦後にかけて活躍された作家・宇野浩二の作品に『聞く地蔵と聞かぬ地蔵』という有名な童話があります。

ある貧しい村に旅のお坊さんが立ち寄りました。村人たちは貧しいながらも心温かくもてなしたところ、お坊さんは感謝してお礼にと一対のお地蔵さんを置いていかれました。西のお地蔵さんは願いを何でも叶える「聞く地蔵」、東のお地蔵さんは願ってもただ黙っているだけの「聞かぬ地蔵」です。

お坊さんは村を去るときに、

西の地蔵よりは東の地蔵にお参りした方がいいですよ」

と言い残していきました。

村人たちは最初、両方のお地蔵さんにお参りしていましたが、東のお地蔵さんは何も願いを聞いてくれません。
対して、西のお地蔵さんはお参りすると何でも願いを叶えてくれるため、村人たちはこぞってお祈りをします。病気や災厄を免れ、豊かになり立派な家も手に入れました。

ところが、働かなくても願ったものは何でも手に入るので、誰も働かなくなったばかりか、ほかの村人たちよりもっと立派な家に住みたい、もっと金持ちになりたいと願うようになります。
それだけでは飽き足らず、「あいつが病気になりますように」「あの家が貧乏になりますように」とお互いが相手の不幸を願うようになったのでした。

いつ自分の不幸が祈られるのかと不安になった村人たちは、隣人さえも信じられなくなり、いさかいが絶えなくなります。
村が混乱していると再びあのお坊さんがやってきて、「東の聞かぬ地蔵にお参りしなさい」と言われたのでした。
村人たちはやっと最初に言われた意味に気づき、東のお地蔵さんにお参りするようになりました。
その結果、村は貧しくなったけれども、村人たちは再び懸命に働くようになり、お互いの信頼も回復して元の平和な村に戻ったといいます。

──この短い物語には、人間の願いや幸せと欲望の問題が示されています。
聞く地蔵」は願い事を叶えてくれて、ありがたいように思いますが、人間の欲望には限りがありませんから、「もっと欲しい」「もっと便利に」といつまでも満たされず、どれほど物質的に豊かになっても幸せを感じられません。
一方で「聞かぬ地蔵」は、願い事を何も叶えずに私の心を黙って受け止めるだけの存在です。お金が儲かるわけでも、病気を治してくれるわけでもなく、ただ黙って見守っているだけであるのに、村人たちは幸せに暮らすことができたのでした。

苦しいときでも、黙って自分を温かい目で見守ってくれる存在があると感じるだけで、生きていくうえで大きな支えになります。

人によっては、それが親であったり、親戚のおじさん、おばさん、恩師、友人であったりするのかも知れません。
浄土真宗の仏さまである“阿弥陀如来“も「聞かぬ仏」です。
いずれにしても私は独り放り出されて生きているのではなく、仏さまやご先祖さま、周りの人たちに見守られ、支えられ、願われている存在なのです。
何かに支えられているという感覚を持てれば、何の支えもなく独りで苦しんでいると思い込んでいた日々とは違い、こころ穏やかに過ごせるようになるはずです。

〈参考『人生は価値ある一瞬』〉

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2017年10月01日