欲を少なくして 足るを知る
あるところに99頭の牛を所有する男がいました。彼はあと1頭の牛を手に入れればキリのいい100頭になると考え、わざとボロボロの服を着て貧乏人になりすまし、遠くにいる友人の元を訪問。その友人はたった1頭の牛を持って、細々と暮らしていました。
「お前はいいなぁ……。実は俺、貧乏になったんだよ。子どもたちに食べさせることもできなくなった。どうか助けてはくれないか」
もちろん、嘘。男は99頭の牛を所有する大金持ちです。
「そんなに困っているとは知りませんでした。私はこの1頭の牛がいなくなっても、妻と力を合わせて働けばなんとかなります。だから、この1頭をあなたにあげましょう。この牛を連れ帰り、お腹を空かせたお子さんにミルクでも飲ませてあげてください」
貧しい友人はそう言うと、男に1頭の牛を布施しました。
その晩、大金持ちの男は1頭の牛を手に入れ「これでキリのいい100頭になった」と喜んで寝ます。
一方で、貧しい友人も、「彼を助けることができた」と喜んで寝ました。
さて、どちらの喜びが本当の喜びでしょうか。
答えは明らかです。金持ちの男の喜びはたった一晩の喜びです。翌日に目を覚ませば「キリのいい100頭になった。次は150頭を目標に頑張ろう」と考えます。すると、男の所有する100頭の牛の価値はその瞬間に【マイナス50頭】になります。マイナスということはゼロよりも下です。男はマイナス50をマイナス40に、マイナス40をマイナス30にするためにいつでも何かに追われた人生を送らねばなりません。それで150頭になる保証はなく、仮に目標を達成したとしてもその喜びはたったの一晩です。次は200頭をめざして同じように余裕のない人生を送ります。
対して、貧しい友人の喜びは本物です。彼は妻と力を合わせてくことになりましたが、何かに追われることなく、“のんびり”“ゆったり”とした人生を生きることができます。
私たちは99頭の牛を100頭にし、100頭の牛を150頭にすることで喜びを得ようと考えます。
しかし、モノやお金、健康は手に入らなければ不幸なのでしょうか。だとすれば私たちは、不幸のなかで人生を終えるしかありません。病と死からは誰も逃れられず、最後には家族も財産もモノも全て手放していかなければならないからです。
仏教では病人であっても、モノやお金がなくても喜ぶことができる真実の道が示されます。
肝心なのは何かを手に入れることではありません。