アメリカで余命3週間から4ヶ月の人たちの苦痛緩和治療をする施設で働いているボニー・ウェアさんという方がいます。彼女が患者さんに「人生の最後に後悔することは?」と質問したところ、主に次の5つが挙げられたそうです。
①「周囲の期待に沿うのではなく、自分の望んだ人生を歩むべきだった」
これが最も多い答えでした。親や家族の期待に応えようと頑張ったけど、無理をしてばかりで辛いことが多く、楽しい人生ではなかったというのです。
②「あんなに働くべきではなかった」
次に多かった答えです。これは特に男性に多かったそうです。仕事ばかりで、家族や友人と楽しい時間が持てなかったということです。収入は減っても、出世はしなくても、もっと子どもたちと接していたかったといいます。思い返せば、貴重な時間を全て仕事に費やしてしまったという後悔です。
③「自分の感情を表現する勇気を持つべきだった」
周囲との人間関係を壊したくないので、言いたいことを我慢し続けたことを悔やまれる方が多いといいます。
④「友人をもっと大切にするべきだった」
昔の友人との付き合いをなくしてしまったことを後悔されている人が多いということです。人生が終わりに近づくと、大切になってくるのは愛情や友情であるとボニーさんは言います。
⑤「もっと自分を幸せにしてあげれば良かった」
これはこれまでの4つの後悔を統合したものといえます。結局、この人生は、世間体や人間関係ばかり気にしながら仕事だけに時間を費やし、自分が本当に良かったと言える時を過ごさなかったというのです。
以上はアメリカの人たちの「人生の最後に後悔すること」ですが、日本人に聞いても近い答えが返ってくるのではないでしょうか。世間一般に「社会に認められて出世し、お金をたくさん持っている人は幸せだ」という漠然とした価値観があります。ボニーさんが話を聞いた人たちも、この価値観でひたすら走り続けてきたのではないでしょうか。その結果、人生の最後に後悔を抱えていかれたのです。
仏法では、私たちの価値観を超える世界が説かれます。世間に認められるかどうかではなく、ありのままの私を抱いてくださる仏さまがいらっしゃることを大切にする生き方です。私が大切にしようとしまいと、私を大切にしてくださる仏さまのはたらきに包まれている。世間が誉めようと貶そうと、見捨てないという仏さまが見守ってくださっている。そこには、この人生をどのように送り、どのような形で終ったとしても、その私を認めてくださる仏さまがいらっしゃる安心感があります。
(参考『赤光』より)
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