信頼していた人から裏切られることは、とても辛いことです。その時の絶望感や悔しさ、哀しみは非常に深いものがあります。
「あいつには人の心というものがないのか」「誠実な人だと信じていたのに……」「あんな人だとは思わなかった」と、恨み言のひとつも言いたくなるかも知れません。しかし、自らのことを振り返ってよくよく考えてみると、果たして自分自身、他人を裏切らない生き方ができているのでしょうか。
「人の心は“ころころ”と変わるから“こころ”なのだ」という話を聞いたことがあります。条件次第では、どう心変わりするか分からないのが人間です。日頃は人格者であっても、自分の生命・財産・地位・名誉などに関わる問題にぶつかると、周りが見えなくなって、人柄がガラリと変わってしまう場合があります。
自分では、他人の信頼を絶対に裏切らないと決心していたとしても、事と次第によっては、その心構えがどう変わるか分かりません。自分自身がそうである以上、他人の心というのもアテにはならないのです。
はじめから、「私も相手も、人間とはそういう存在なのだ」という前提で付き合っていれば、もし裏切られたとしても、非難することや、腹が立つこと、大きく傷つくことはないでしょう。
しかし、人間社会は自分一人で生きているわけではありません。他の人を信頼し、お互いに役割を分担しあい、仕事を任せあって成り立っています。だからこそ、自分自身も社会の一員として自覚を持って、信頼に応えていくことは大切なことです。
その時に心がけたいのは、一つには“無理をしないこと”です。自分の能力以上のこと、与えられた条件以上のことをやろうとすると、必ずどこかで無理が生じます。その結果、どうしても人を裏切らなければいけない状況に追い込まれることもあるでしょう。
二つには“他人を利用しないこと”です。私たちは、突き詰めて言えばお互いを利用しあって生きています。それを当然と考えて、人を“もの”として、あるいは“手段”として利用しようとすれば、信頼など生まれるわけがありません。例えば、製造業であれば、労働者が生産手段としての役割を担っています。しかし、それも度が超えて過労死を招くようでは、雇う人と雇われる人の信頼関係も崩壊してしまいます。
人の信頼に応え、裏切らないように生きていくのは、人間として大切なことです。同時にとても難しいことです。相手の信頼に応えることは容易ではないことをしっかり理解しながらも、自分の都合を少し引っ込めてお互いのことを思いやり、社会の一員として生きていく努力をしていきたいものです。
お寺の本堂や、お仏壇の前で手を合わせる時間は、そうした自分自身を省みる時間であるともいえるでしょう。
〈参考『人生は価値ある一瞬』より〉