私たちは何かを手に入れて幸せになろうとしている[稲垣えみ子]

 

 

「仏教とはしあわせへの道である」、これはとある先生の言葉です。「しあわせ」と聞くと何を連想しますか。お金持ちになる、試験に受かる、仕事が成功する、あるいは健康、恋愛成就でしょうか。

去年、「日経新聞 子どもニュース」に小中学生200人を対象にしたアンケートが掲載されていました。質問は「今の子どもが“昔の子どもは可哀想”と思うこと」。結果は以下の通り。

①土曜日にも学校の授業があった
②インターネットがなかった
③面白いゲームがなかった
④携帯電話がなかった
⑤エアコンがなかった
⑥テレビが白黒だった
⑦コンビニエンスストアがなかった
⑧学校の給食がおいしくなかった
⑨家の手伝いをしなければいけない
⑩テレビが家に一台しかなかった

2位以下は、全てモノがなかったことを「かわいそう」と見ています。それらのモノは確かにあれば便利で快適でしょうが、なければ不便かというとそうでもありません。むしろ、昔のこどもをかわいそうと感じてしまうほど、モノに依存してしまっている今の子どもたちを、「かわいそう」と思うのは、昔のこどもである私の負け惜しみではないでしょう。

便利なモノを享受している子どもたち、私たち。モノに溢れた生活は一面では確かに「しあわせ」な姿といえるでしょう。ですが、同時にそのことで縛られた「ふしあわせ」に陥っているように感じます。しあわせは一般的に「幸」と書きます。上部の「土」と下部の「干」が二本の線で繋がっているこの字は、人を繋ぎ止めて自由を奪う枷・手錠を表す象形文字です。「幸」とは繋がれた状態そのものです。

お金があることが「幸」だと考えている人は、お金に縛られます。愛情を得ることが「幸」と思っている人は愛情に縛られます。それらを手放すことなど不安で到底できません。モノや人に繋がれた、客観的に見れば自由を奪われている状態が、「幸」です。

「仏教とはしあわせへの道である」といった時の「しあわせ」は、「幸」ではなく「仕合わせ」です。辞書で「しあわせ」を引くと、まず「仕合わせ」とあることが多いです。元々は、「為合わせ」ともいいます。為されたことが合わせること、つまり「めぐりあわせ」「他者と出会うこと」をしあわせと呼んだのです。そのため、元々は良いことだけでなく自分が望んでいない悪い事態も「しあわせ」と言っていました。「しあわせへの道」であるというのは、「他者との出会い、他者の発見」を指します。

しあわせを求めない人はいません。しかし、そのせいでお互いを傷つけあうことが少なくありません。自分だけのしあわせを求める心が、他者の切り捨てや無視を生み出します。結果的に自らの基盤さえ失ってしまうことも多くあります。

他者との出会いは、すなわち自分との出会いです。枷をはめてきた自らを見つめ直し、解放していくことで開かれる「仕合わせ」。それは予想もしない姿で立ち現れるのかも知れません。

〈参考『やわらか法話』より〉

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2016年06月01日