どん底だと思ったら その底を掘れ

いろいろと悩んだあげく、人生に絶望し、こころを病んだり、自分や他人のいのちを傷つける行為に走る人がいます。生きにくい世の中ですから、何かにつまずくと、その根本的な原因と向き合うことは難しいです。「もう、私はダメだ。人生のどん底だ」と思い込んで、絶望的になる人も多くいるのではないでしょうか。

どん底だと思うと、井戸の底のように周囲を厚い壁に囲まれた感じがします。「ここから抜け出す道はない」と、八方塞がりのように思えるかもしれません。
解決に向けて努力するのを諦めて、自暴自棄になるか、どこかから助けの釣瓶が下りてこないかと考えるようになります。安易に対症療法に飛びついても、根本が解消されない限りは、ほんとうの意味で安らかな生活を送ることはできません。

苦しい体験を強いられたときには、一方では、「ああしておけばよかった」「こうしておけばよかった」と後悔し、もう一方では、「周りの人がよくなかったから、自分はこういう目に遭っているのだ」と恨み言のひとつも言いたくなります。
どちらも一部分では当たっていたとしても、苦しい事情を引き起こした原因にいつまでもとらわれているだけでは、方向を転換して次へ行くことができません。大切なのは、行き詰まっている現状をすでにあるものとして受け入れ、そこから次へ行く道を模索することです。つまり、どん底だと思ったら、そのどん底をもっと掘ることを考えればよいのです。

すると、深刻に思えた事態であっても、これまでの方向の延長線上とは全く違う方法で新しい打開策を見つけだせる可能性があります。たとえば、スポーツの選手としてはどん底まで落ちる屈辱を味わいつつも、指導者に転向して再起した人など、どん底から新たな方向性を見出して成功した人の例はいくらでもあります。

浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、当時の権力者の弾圧によって京都から越後(新潟)へ流されました。親鸞聖人の人生においては、最も悲惨な事態に遭われたときではなかったかと思われます。いわば、人生のどん底と思われたとき、親鸞聖人はこう受け止められたと伝えられます。

「京都から遠く離れた新潟へ行かされていなかったら、その土地の人たちに仏法を伝える仕事は誰がするのか。それは、自分に与えられた大事な仕事である」と。

まさに、どん底の底を掘られ、新しい道への展開を志されたのでした。どん底に思えても、底を掘れば、新しい道につながるヒントがいろいろ掘り出せます。それらの可能性を一つひとつ検討して、「どん底だ」と投げ捨てず、投げやりにならずに、人生を大切に歩んでいきましょう。

(参考『人生は価値ある一瞬』より)

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2016年07月01日