地毛証明書

中央実習の2日目。この日は話し合い法座が2席ありました。

話し合い法座とは、一人ひとりの抱える日常的な悩みや思いをそこにいる全員で受け止め、み教えに問い聞き、ともに考え、気づき、課題を共有していくものであります。
僧侶が一方的に話をし、受講者が一方的に聞くだけでなく、話し合い法座を通して「聞き・話す」ということを繰り返しながら、人と人との温もりを、心と心のつながりを確かめ合う中に、自分を再発見できる法座となることでしょう。

と資料に書いてあります。数人であれこれと話し合って共有する形の法座です。


最初にテーマに沿った問題提起がありました。そのなかで一緒に研修へ参加している受講者の方が朝日新聞から「地毛証明書 必要ですか」という記事を紹介してくれました。


地毛証明書とは、生徒が髪の毛を染めたりパーマをかけたりしているか、生まれつきの髪かを見分けるため、高校入学時に一部の生徒に提出を求める書類のことです。名称や書式は各校で違いますが、多くは保護者が「髪の色が栗毛色」などを記入し、押印する形。中には幼児や中学生の時の髪がわかる写真を裏付けとして求める学校もあるようです。

記事の中ではこの地毛証明書について、「間違った指導を防ぐために必要」と「生徒自身が考える教育のために不必要」と、それぞれの有識者から意見が述べられていました。

前者は「身体的特徴を自ら証明させることは、人権上の配慮に欠けるのでは」、
後者は「証明書がないとみんな“地毛です”と嘘をついて染めてくるのでは」と指摘があります。

国際化が進む中、「黒髪・直毛」を標準とする頭髪指導は時代に合っていないのではないかと記者の方も書かれています。


そもそもどうして生徒の容姿を限定するような校則が存在するのでしょうか。
そこには学校のルールを守らせることで社会組織や集団生活で一脱することがない人間を育てるためであったり、しつけを通して我慢する力をつけるためであったり、派手な頭髪や装飾によって本人や学校のイメージが悪くなるのを防ぐためであったりと様々な理由が考えられます。

裏を返せば、ルールが守れない人間は切り捨てられるべきだからルールを守れる人間を育てようという主張や、パーマや茶髪に対してはだらしないイメージがあるという先入観があるのかも知れません。


それならば本当に必要な教育は、ルールから外れてしまう人を認めたり手を取り合えたりする人間を育てることや、茶髪やピアスをしているからといってその人の人格を見た目で判断してはいけないと教えていくことではないでしょうか。

……と、もっともらしい意見を述べましたがあくまで理想論です。さらにいえば、私も先入観や偏見をたくさん持っているのであまり偉そうなことは言えません。
しかも理想や自分の本質を知っていても、やっぱり相手を裁いてしまうことばかり。
人間がそういう弱くて愚かな存在であることを知ったからどうなる訳ではありませんが、そういうもんなんだなと頭の片隅に置いておきたいものです。

そもそも、人間同士の営みの話や自分で自分が気付いた話ほど不毛な話はないのかも知れません。

合掌

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2017年06月14日