アイヒマン実験の記事を書いた折に、改めて『服従の心理』を読みました。
実験の結論は、「服従は悪いことだ」です。
服従という心理的メカニズムによって、人は批判能力を失います。
権力者からの指示次第では、反社会的なことや非人道的を平気でやってしまうのが人間です。
そのため、安易に権威に服従することなく、自分の道徳観や価値観を常に貫徹させましょう……というのが、実験者であるミルグラム博士の主張。
私たちは善悪を知っていたとしても、実際に自分自身の意思で善悪を判断して行動することが難しいと教えてくれます。
さて、『服従の心理』はミルグラム博士の著述を山形浩生氏が翻訳したものです。
読み直して気づいたのですが、最後に山形氏による解説がありました。
すると結論はいささかつまらないものになる。
理想的な状況は、服従がないことではない。社会が(それなりの相互監視やチェックシステムにより)各種権威をきちんと信頼できるものに保ち、人々はその信頼を前提として、おおむねその権威の言うことに安心して服従する、といういまの社会と大差ない状況がいちばん穏便かつコストも低くて望ましいものだろう。
そして各個人は信用して服従しつつも、変だと思うことがあれば申告できる仕組みがあればいい。その個人が決死のアクションをとらなくても、申告に基づく組織的対応の道があればすむ。
その限りにおいて、服従そのものに悪いことは何もないのではないか。ミルグラムの懸念は、他の社会システムでかなりの部分が補えるのではないか。
権威に服従する人間は、権威に対する信頼があります。そうであるからこそ、間違った権威を生み出さない社会システムの構築が必要ということです。
アイヒマン実験がなされた今から55年前は、権力に対する反抗心も強かった時代であることから、「服従はよくない。アンチ権力」の構図が簡単にできあがってしまったのではないでしょうか。
いろいろと議論があった実験のようですが、親鸞聖人のことば(『歎異抄(たんにしょう)』)には、
さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
(人は誰でも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである)
とあります。
そもそも実験の前提にある、「普通の人は他人を理由もなく傷つけたりしない」が間違っているのではないのでしょうか。
人間は誰もが、服従しようとしまいと縁に触れれば人を平気で傷つける本性を持っています。
一応、社会という権威に「理由なく人を傷つけてはいけない」という道徳を押しつけられているので、表面上は誰もが本性を隠すことができています。
しかし、アイヒマン実験のように別の権威によって命令されたり、縁が調ったときに隠れていた本性が顔を出す……ということでしょう。
合掌