物語


以前も少し触れましたが、年末に映画を題材にした15分程度の仏教の話をすることになりました。
京都の研修から戻ってきたので、時間を見つけて映画を観ています。

映画は嫌いじゃないのですが、だからといって年に何百本も見るような通でもありません。自分の人生で映画館にもっとも通っていたのは恐らく学生時代。


お寺から自転車で5分も走ると、「ギンレイホール」という名画座があります。
ロードショーが終わった映画の中からセレクトして2本立てで上映する映画館です。


上映される映画は2週間で入れ替わります。年間で観ることができる作品は50本以上。フリーパスもあるため、映画好きの人には有名な劇場です。


私はたまたま近くに住んでいたのと熱狂的な映画通の友人に誘われたこともあり、よく通っていました。
最近はほとんど行かなかったのですが、法話作成のために再び訪れています。


ちょうど京都での研修が終わったタイミングで映画が入れ替わっていました。今回は『美女と野獣』と『怪物はささやく』の2本。前者は鑑賞済みなので、後者のみ観ることに。

以下、内容に触れますのでこれから観る予定の方は読まないでください。


物語の主人公は13歳の少年であるコナー。窓から教会の墓地がみえる家に難病(末期ガン)を抱える母親と住んでいます。


病気で精神的に不安定な母親、新しい家族を作って出て行った父親、折り合いの悪い祖母、自分をいじめるクラスメート──過酷な状況で孤独に苛まれるコナーは、
「崩れゆく世界の中、掴んでいた手を離して母親を死なせてしまう」という悪夢に毎晩うなされていました。


ある夜、コナーのもとに木の怪物がやって来て告げます。

「今から私はお前に3つの【真実の物語】を話す。4つ目の物語はお前が話せ。その物語がお前の真実だ」

「意味が分からない」とコナーは抵抗しますが、その日を境に夜ごと怪物は現れ物語の幕が上がります──。


1つ目の物語は「黒の王妃と若き王子」。

黒の王妃と若き王子

むかしむかし、3人の息子と王妃を失いながらも国民に愛された素晴らしい王様がいました。
王様が跡継ぎに指名したのはひとりの孫。勇敢に育って王様を支えます。

しばらくすると、王様は再婚することに。その直後に王様が亡くなったことで、新しい王妃は「王に毒を盛った魔女」と囁かれました。

若い王子に代わって1年だけ王の座を手に入れた王妃。その力を完全に我が物にしようと王子に結婚を迫ります。
しかし、そのとき既に王子は農家の娘と恋に落ちていました。王妃の誘いを断って、2人は愛の逃避行。
逃げ疲れて一夜が明けたとき、王子は驚きます。最愛の恋人が何者かに殺されていたのです。

王子の大切な人が殺されたことで、王子だけでなく国民も立ち上がりました。このときに木の怪物も参加していたといいます。
無事に王妃を追い払い、王子は国を立派に治める国王となりました。めでたし、めでたし。

コナーが怪物に尋ねます。

「王妃は殺されたの?」

「いや、私が逃がした」

「なんで?悪い人殺しなのに」

「王妃は誰も殺していない」

「どういうこと?」

「野心家で魔女だったのは間違いない。ただ、国王は病死だし、王子の恋人も殺していない」

「王子の恋人は誰が殺したの?」

「王妃から王座を奪還する起爆剤とするために王子が殺した」

この物語を通じて「物語には二面性がある」「善人も悪人もいない」ことをコナーに伝えた怪物。


2つ目の物語は「薬師の秘薬」。

薬師の秘薬

今から150年前。この町は近代化が進み、工場が乱立していました。

近代医学も進むなか、仕事がない薬剤師が若い牧師の家を訪ねます。

「教会の庭にあるイチイの樹を切らせて欲しい。その樹で良い薬が作ることができる」

しかし、若い牧師は木を切るのを断っただけでなく、近代医学と逆行する古い治療法を否定します。
噂はたちまち広まって薬剤師は廃業することになりました。

ところが、牧師の2人の娘が重病に冒されます。近代医学も牧師の必死な祈りも効果がありません。

牧師は薬剤師に懇願します。

「娘たちを助けてくれ」

「俺はお前のせいで廃業した」

「私がなんとかする。教会の庭の木を切って薬を作り、娘たちを治して欲しい」

「治すためならなんでもするか?」

「なんでもする」

「信仰も捨てられるか?」

「当たり前だ」

「じゃあダメだ。信念のない人間には誰も救うことができない」

結果、牧師の娘たちは死んでしまいました……。

物語を聞いたコナーが怒り出します。

「なんて酷い話だ」

「そうだろう?だから俺は罰をとして教会を壊してやったんだ」

「えっ、そっち?」

「薬剤師には嫌な奴だったが、信念を持った正しい人間だった」

怪物が教会を壊すのを見て、物語の中の登場人物のひとりとしてコナーも教会を破壊。しかし、物語から抜け出したコナーが立っていたのは、ボロボロになったリビングでした。

罰を与えられた信念なき神父はコナー自身であったことを表しているのでしょうか。


3つめの物語は「透明人間の男」。

透明人間の男

あるところに、誰からも認識されない透明な男いました。

しかし、男は実際に透明だったわけではなく、まわりが誰も存在を認めてくれないだけでした。

男は自身の存在を示すために怪物を呼び出します。

しかし、そのことでより孤独が深まってしまったのでした。

孤独から逃れようとした結果、孤独がさらに深まる──私たちの世界でもよく見られる光景ではないでしょうか。


コナーは学校でいじめられている自分自身と物語を重ねます。

「僕は透明人間なんかじゃない!」

物語によって突き動かされたコナーはいじめっ子を殴って病院送りにしました。


怪物によって語られた物語は、どれも人間の矛盾や不条理という真実を描いたもので、コナー自身に重なっているようです。

そして最後の物語がコナーの口から語られるときがやってきました。

最後の物語

最後の物語の舞台は、コナーがいつも見ていた悪夢の中。

崩れていく世界で母親を助けようと必死に手を握るコナー。

「コナー、絶対に手を離さないで……」

「離すもんか!」

──しかし、健闘むなしく母親は奈落の底へと堕ちてしまいます。


怪物が尋ねます。

「なんで手を離したんだ」

「僕は頑張ったけど、手が離れてしまった」

「それがお前の物語の真実か」

「……」

「どうなんだ?真実を言え!」

「僕から手を離した!!本当は終わらせたかったんだ!!待っているのが辛かったんだ!!」

コナーは「母親に長生きして欲しい」という思いと、「この苦しみから早く解放されたい」というふたつの矛盾した思いを常に持ち続けていました。

最後の物語は、「衰弱する母を見続ける苦しみや学校で孤独に耐える苦しみから逃げ出したい」と考えると同時に、心の片隅で全てが終わってしまえばいいと考えていたコナーの心理の具現化ということでしょう。

そんなコナーに対して怪物がささやきます。


「人間とは複雑な生き物だ。物語は真実の辛さをやわらげてくれる」


私たち人間は現実と理想に矛盾を抱えていくが故に苦悩していきます。

その苦悩という真実を自分自身で受け入れることは難しいことかも知れません。

しかし、その真実に物語を通じて触れていくことで、私たちは苦悩と向き合っていくことができるのでしょう。

その後、危篤状態の母親が入院している病室にコナーは向かいました。


母親の手を取り抱きつくと、今まで抱えていた感情を正直にぶつけます。

「気が済むまで暴れなさい」と、 コナーが独りで悲しみを胸に抱え込まないよう最後の言葉を残して母親は亡くなります。

後日、祖母から母親が使っていた部屋の鍵を受け取ったコナー。部屋の中には、スケッチブックがありました。


そこに描かれていたのは、あの怪物と3つの物語の登場人物だったのです。おしまい。


ブログに書くために整理してみましたが、なかなか難解な映画でした。

個人的に印象的だったのは、「母親に生きて欲しい」と思う反面で湧き起こる「母親に死んで欲しい」という気持ちを押し殺すコナー少年の姿が、「人間の不条理・矛盾」という真実を描いた物語に触れることで変化していく展開。

人は誰しも思ってはいけないことを思ったり、現実世界の不条理という真実から目を逸らしてしまうことがあります。

そんなときに私たちを突き動かすのは、「人間はこうなんです」といった冷たい理屈や情報ではなく、真実を紡いだ温かい物語なのかも知れません。


さて、この話と仏教をどのようにミックスさせるのか……と、考えたときに思い浮かんだのは、『仏説無量寿経』に説かれている「法蔵説話」の物語です。


物語の宗教的な受け止めについては、釈徹宗先生がさまざなな著書で言及しています。

哲学者の野家啓一さんは『物語の哲学』の中で、「もともと人間は物語る動物であるのに、現代人はそれが著しく衰退している」と述べています。
確かに私たちは「実用的な情報」ばかりに目を向けて、「物語」にしっかりと耳を傾けることが少なくなっているかも知れません。

とはいえ、実は私たちは何らかの物語の中で生きているのです。私たちの個人的な経験もある種の物語であり、幸せとは何か、何が正しく、何が間違っているのか、何のために生きるのか、などといった人間にとって本質的な問題もある種の物語だからです。

そんなさまざまな物語が交錯する中、「ああ、これこそ私のための物語に違いない」と身も心も実感した時、もはやそれを他の物語で代用することは不可能になります。

伝統的な宗教が語るのは、まさにこのような「代替不能」の物語です。
法蔵菩薩が正覚(さとり)を得て阿弥陀仏となる道筋も、他のお話と取り替えるわけにはいきません。
なぜなら、その物語に沿って人生を生き抜き、死にきっていった数多くの人々がおられるからです。
私はそのような性質を持った物語を「宗教的ナラティブ(物語)」と呼んでいます。

現代人はついつい情報に振り回されがちです。しかし、情報は単に消費されていくだけのものです。決して私たちの人生や後生を支えてくれるものではありません。

「代替不能な物語」「死をも超えていく物語」

という視点から仏教聖典を再読する取り組みが必要なのかも知れない、そのように考えています。〈『季刊せいてん no.109』本願寺出版社〉

非常に大切な視点ではありますが、15分で話すにはちょっと厳しいかも知れませんね……。

合掌

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2017年12月17日