昨日、『怪物はささやく』という映画を観て、物語というものの意義を少し考えていました。
『浦島太郎』という有名な物語(おとぎ話)があります。
浜辺で子供たちに虐められているカメを助けた浦島太郎。
お礼に竜宮城に連れて行ってもらい、乙姫さまたちに歓待をしてもらいます。
浦島太郎が帰ろうとすると、「お土産にこちらをどうぞ。ただし、決して開いてはいけませんよ」と玉手箱を手渡されました。
カメに乗って浜辺に帰ると、そこで待っていたのは何年もの月日が経っていた世界。誰も浦島太郎のことを知りません。
孤独な浦島太郎が玉手箱を開けてしまうと、中から白い煙が発生します。
煙に包まれた浦島太郎は、老人となってしまいました。
この物語には、「困っている人は助けてあげましょう」「約束は守らなければいけません」という教訓が描かれてるように思います。
しかし、改めて考えると浦島太郎が不憫で仕方がないと思わないでしょうか。
せっかくカメを助けてあげたのに、こんな酷い仕打ちを受けるなんて……。
とはいえ、私たちの世界には「相手のためを思ってとった行動によって、結果として自分の身に災難がふりかかる」といった理不尽が幾らでもあります。
3年くらい前のことです。お寺の近くを歩いていると、自転車に乗った親子連れと衝突しました。
相手はなかなかのスピードが出ていたとはいえ、私が避けきれずにぶつかったのは子どもの自転車だったので、こちらに大した怪我はありませんでした。
しかし、相手の子どもは転倒して肘や手を擦りむいてしまったようです。
歩道で起きた歩行者と自転車の接触事故ですから、こちらも動いていたことを差し引いても一般的には1:9で相手に非があるでしょう。
とはいえ、私は無傷。相手の子どもは怪我をしたうえに、お母さんも非を認めて真摯に謝っていました。
痛みやメガネが落ちたりと被害はあったものの、相手を責めても仕方がありません。
「お互いに気をつけましょう。お子さんのお怪我、お大事になさってくださいね」とその場は収めました。
家に帰ってから、衝突の際に落としたメガネが壊れていたことに気がつきました。
「自分は悪くないのに……」と少し悲しい気持ちになりましたが、直せば良いかと我慢することに。
しばらくして、お寺に電話があって親子とその父親、そして警察がやってきました。
「えっ、なんで私がこのお寺にいるのが分かったんですか?」
「ここを出入りするのを見たので……」
一抹の恐ろしさを感じたものの、事故の調書を取りたいと言うので、少しだけ話すことになりました。
「歩きスマホをしていたところ、自転車と衝突したとのことですが……」
警察の方の説明は、「歩きスマホをしていた私が自転車に衝突してその場を去って行った」というものでした。
「いや、ちょっと待ってください。話が事実と大きく違うんですが」
私がありのままに当日の出来事を話すと、警察の方も混乱します。
とりあえず事故があったという事実だけをそこで確認して、お互いの連絡先を交換。
その後、慰謝料の請求など大事になりそうだったのですが、奇跡的に目撃者が見つかったことで事態は収束しました。
自分に非のない事故にも関わらず、メガネが壊れて、お寺に乗り込まれ、慰謝料まで請求されかけるなんて……こんな理不尽な話があるのでしょうか?
あります。浦島太郎がそうです。
仏教はこの世界の真実を「一切皆苦(いっさいかいく)」と説きます。
他人や世界の動きだけでなく、自分の心やいのちのことであっても、私の思い通りにはできません。
だからこそ、自分の思いにそぐわない「理不尽だ」と感じることがたくさんあるのは当たり前なのです。
しかし、こうした深い真理を知識として知ることができても、なかなか受け入れることはできません。
そんな中、最近になって『浦島太郎』の内容を聞くと、「そうだよな。そんな理不尽なことってあるよな。世の中って自分の思い通りにならないし、そんなもんだよな」と自らの身に引き当てて深く共感することがあります。
仏教と浦島太郎に直接の関係はありません。また、物語には人の数だけ受け止め方があります。
ただ、物語は私たちに理屈では分かりにくい世界のすがたを教えてくれることがあるのではないでしょうか。
浄土真宗で大切にされる『仏説無量寿経』や『仏説観無量寿経』といったお経にも、物語が説かれています。
言葉では説き尽くすことができない仏さまの不可思議なさとりを、私たちが触れられるような言葉と因果で表現した物語です。
そこには私を救わねばならぬと立ち上がった阿弥陀如来という仏さまの真実と、仏さまが救わねばならぬとご覧になった私の真実が示されています。
合掌