首都圏の浄土真宗本願寺派 青年僧侶会という団体があります。
会報を作る“広報部”や、募金や献血など社会活動を企画する“社会部”など6つの部署に分けられています。
私は“教化部”の部長の役をいただいています。といっても先輩に任せっきりで、特に何もしていません。
教化部の主な仕事は、僧侶の研鑽を目的にした研修を企画すること。今年度2回目の研修会が本日開催されました。
浄土真宗の教えの中心とその伝え方を学びました。
講師の紫藤常昭先生は福岡県福岡市のお寺のご住職です。経典や聖典への造詣が深いだけでなく、お説教の名手として全国に名を馳せるスーパー僧侶。
宗教は何から始まるか。それは“死の認識”からです。人間というのは死ぬことを知っています。ただ、死んだことがないので、分かってはいません。でも知ってはいるので死に対する不安はあるんです。宗教というのは、それなんです。
どのような人間でも“無宗教”ということはありません。死の認識ですから。「自分は無宗教です」という人がいますが、あれは無宗教ではなく“自分教”という宗教です。自分教という宗教の教義は、「死んだら終わり」ということになっています。何故かというと、“自分が生きていると思っている”からです。
仏教ではまず“生きてると思っている”ということを否定します。それが【縁起】ということです。自分が生きてると思っているなら、ずっと自分が思うように生き続ければいいのですが、そうはいきません。そこに、「生かされている」という縁起の教えがあります。
まず、宗教としての仏教がどうあるのかということから始まり、そしてそれが私のことであるということ、浄土真宗で語られる真実は私と関係しているものであるということ。
ベッキーが不倫しようがどうしようがええんです。でも、あなたのところの嫁さんが不倫したら困るんです。真実というのは、そういうものです。私に直接しているということが真実です。
STAP細胞がどうのこうのと言ってましたが、それはどうでもええ。ところが、消費税が上がるとなると大量のトイレットペーパーを買い込む。それは自分に直接していること。それを真実といいます。
『大無量寿経』というお経の内容である【本願力(ほんがんりき:仏さまのはたらき)】とは、私に直接している。その直接関わっているすがたが「南無阿弥陀仏」です。その「南無阿弥陀仏」が、私の計らいを超えた世界であるということを親鸞聖人はキッチリとおっしゃっている。
身近な話題を用いながら、楽しく浄土真宗の教えの要となるところをお話しくださいました。
参加者も60人近く集まり、とても有意義な研修会となりました。
もっとたくさんお話をご紹介したいのですが、文字だと先生のお話の臨場感や空気感が伝わらないのが残念です……。
合掌