小悲なき身1

扁桃炎になって病院に処方箋を受け取りに行ったときのこと。

夕方で仕事帰りや学校終わりの人で混んでいましたが、ソファーが空いていたので座って呼ばれるのを待っていました。

なかなか呼ばれなくて暇だったので、周りをキョロキョロと見ていると、後ろには座ることができなくて立っている人のすがたが。
自分が何気なく座っているだけでも、誰かの居場所を奪っていることはあると再認識しました。

「君は勉強会を企画したり、講義や布教など活躍していますね。うちの息子にも見習わせたいよ」

とあるお寺のご住職から、なんとも嬉しい言葉をもらいました。しかし、その日の夜に“うちの息子”本人から連絡がありました。

「君が頑張ると俺が比較されて親に怒られるから、あんまり頑張らないでくれる?」

自分の努力が誰かを不幸にすることもあります。

神社で自分の合格祈願をするということは、同時に誰かの不合格を願うことです。


宇多田ヒカルさんの歌にも「誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ」とあります。


親鸞聖人の言葉に

小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて

有情利益(うじょうりやく)はおもふまじ

如来(にょらい)の願船(がんせん)いまさずは

苦海(くかい)をいかでかわたるべき

というものがあります。

小慈小悲とは、私たち人間が起こす「見返りを求めない」「相手の痛みを我が痛みとする」という慈しみの心です。仏さまの大慈悲と違って①対象が限定される②時間が限られる③報われない──ということが挙げられます。

親鸞聖人は、ご自身のことを小慈悲も成し遂げられない身であるとご覧になっています。

相手のためを思った行動が裏目に出たり、何気なくしている行動が人を傷つけていたり、私たちの世界にはそういうことがたくさんあります。

このことを知っていれば失敗しない……というわけではありませんが、世の中はそういうものだと認識して生きることは大切ではないでしょうか。

合掌

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2017年05月03日